少林寺のボーサン、ご立派
今朝の新聞で読んだのですが、少林寺のボーサン(修行僧)が、「我々の武術は、スポーツとは違うのだぞ。」とか言って、北京オリンピックの少林寺拳法競技に、ボーサンは出ないのだとか。
お見事です。
いろいろな考え方があるとは思いますが、この先は拙僧の意見。
インド人僧侶・ダルマ大師が中国に渡り、いろいろ経緯があった後、少林寺に住まわれました。その寺で、弟子たちに教えたインド武術が、少林寺拳法の始まりと聞いております。
修行中はあちこち行脚をすることもありますから、山賊よけ猛獣よけのため、自分の身を守るため、武術は必須項目でした。
武術とは、悪の制止行為として使うものではありますが、実際に技を使うのは、最終手段であります。相手を諭し、向かってくる相手に対して防御をし、それでダメなら攻撃もやむを得ず、これが鉄則でありましょう。
そうなると、武術の使い手には、大いなる人格が必要となります。術の上手い・下手だけでなく、相手を諭し、悪から善へ導いてあげる精神的力量が必要となります。
つまり、少林寺拳法は、“動く禅”であり、禅の教えの上に立った“護身術”なのです。
確かに武道には「動き」がありますから、「スポーツ」と考えられます。1対1で戦えば勝敗が付くので、「競技」としても成り立ちます。実際に大会も開かれます。
スポーツと捉えれば、「勝つこと」が唯一無二の目標となり、阿修羅のごとき人格となっていくでしょう。
しかし“動く禅”と捉えれば、それは「仏行」であり「菩薩道」の実践となるのです。
よって、「強ければ良い」というのでは、ダルマ大師の教えから大きく逸脱することになります。そうなっては、もはや「少林寺」ではなくなってしまうのです。
ここで思い出されるのが、「日本の柔道」と「世界のJUDO」の件ではないでしょうか。さて、日本の柔道界は、この少林寺のニュースをどう見るでしょう?
お見事です。
いろいろな考え方があるとは思いますが、この先は拙僧の意見。
インド人僧侶・ダルマ大師が中国に渡り、いろいろ経緯があった後、少林寺に住まわれました。その寺で、弟子たちに教えたインド武術が、少林寺拳法の始まりと聞いております。
修行中はあちこち行脚をすることもありますから、山賊よけ猛獣よけのため、自分の身を守るため、武術は必須項目でした。
武術とは、悪の制止行為として使うものではありますが、実際に技を使うのは、最終手段であります。相手を諭し、向かってくる相手に対して防御をし、それでダメなら攻撃もやむを得ず、これが鉄則でありましょう。
そうなると、武術の使い手には、大いなる人格が必要となります。術の上手い・下手だけでなく、相手を諭し、悪から善へ導いてあげる精神的力量が必要となります。
つまり、少林寺拳法は、“動く禅”であり、禅の教えの上に立った“護身術”なのです。
確かに武道には「動き」がありますから、「スポーツ」と考えられます。1対1で戦えば勝敗が付くので、「競技」としても成り立ちます。実際に大会も開かれます。
スポーツと捉えれば、「勝つこと」が唯一無二の目標となり、阿修羅のごとき人格となっていくでしょう。
しかし“動く禅”と捉えれば、それは「仏行」であり「菩薩道」の実践となるのです。
よって、「強ければ良い」というのでは、ダルマ大師の教えから大きく逸脱することになります。そうなっては、もはや「少林寺」ではなくなってしまうのです。
ここで思い出されるのが、「日本の柔道」と「世界のJUDO」の件ではないでしょうか。さて、日本の柔道界は、この少林寺のニュースをどう見るでしょう?
- 関連記事
-
- 妙心寺曝涼展 (2007/10/11)
- 石見銀山行きたい (2007/10/09)
- 少林寺のボーサン、ご立派 (2007/10/07)
- 初体験 (2007/10/06)
- 土地神 その2 (2007/09/29)