智光院の縁起
寛永7年(1630)、天野周防守雄光公の室・智光尼は、嗣子光得の逝去に際し、子の菩提を弔うため一寺建立を発願し、江戸覚印派の一僧侶・大麟玄綱(当時25才)に、東叡山(上野寛永寺)の東・車坂あたり(現在のJR上野駅近辺)の土地700坪を寄進しました。大麟和尚は、自分の師匠である覚印周嘉を開山(初代住職)に、兄弟子の古道宗亘を第二世に勧請し、自身は第三世住職として一寺を創建しました。ここに「智光院」が起立しました。

その後、佐藤駿河守吉次公の助力により、起立から2年弱を経た寛永10年(1633)の春には、諸堂宇が整いました。吉次公はその後寛文9年(1669)にも、諸堂の再建をされました。

宝永2年(1705)、智光尼は戒名を変更しました。最初の戒名は「桂昌院殿心月智光尼大姉」、それが「智光院殿心月寿桂尼大姉」と変わりました。江戸五代将軍・徳川綱吉公の生母である桂昌院が同年6月22日に亡くなり、その直後に改名をしているようなので、「国母」と呼ばれた桂昌院との同名を避けたものと思われます。桂昌院と智光院には、また別の奇縁があるのですが、その話題はいずれ後の機会に…。

元禄11年(1698)、智光院は浅草新谷町8番地(現在の西浅草3丁目26番)に移転しました。浅草での200年以上の歴史を経て後、大正元年(1912)に、東京市の区画整理により、現在地東京杉並に移転しました。

これが智光院の本堂です。昭和34年(1959)に中野区白鷺・真言宗福蔵院の本堂を移築したものです。平成8年(1996)に改修し、正面に新しい向拝を設けました。

その後、佐藤駿河守吉次公の助力により、起立から2年弱を経た寛永10年(1633)の春には、諸堂宇が整いました。吉次公はその後寛文9年(1669)にも、諸堂の再建をされました。

宝永2年(1705)、智光尼は戒名を変更しました。最初の戒名は「桂昌院殿心月智光尼大姉」、それが「智光院殿心月寿桂尼大姉」と変わりました。江戸五代将軍・徳川綱吉公の生母である桂昌院が同年6月22日に亡くなり、その直後に改名をしているようなので、「国母」と呼ばれた桂昌院との同名を避けたものと思われます。桂昌院と智光院には、また別の奇縁があるのですが、その話題はいずれ後の機会に…。

元禄11年(1698)、智光院は浅草新谷町8番地(現在の西浅草3丁目26番)に移転しました。浅草での200年以上の歴史を経て後、大正元年(1912)に、東京市の区画整理により、現在地東京杉並に移転しました。

これが智光院の本堂です。昭和34年(1959)に中野区白鷺・真言宗福蔵院の本堂を移築したものです。平成8年(1996)に改修し、正面に新しい向拝を設けました。
since 2004/6/24 - last modified 2013/8/28