佐藤駿河守堅忠

佐藤堅忠(さとうかたただ)は、当山大檀越・佐藤家の始祖であります。天文17年(1548)の生まれで、慶長17年(1612)12月23日に65歳で亡くなりました。戒名は、冬林宗雪居士(後年に元亨院殿と追贈)といいます。

はじめ豊臣秀吉に仕え、天正13年(1585)金切裂指物使番となり、文禄3年(1594)伏見城の普請奉行を勤めました。秀吉没後は徳川家康に従い、慶長5年(1600)上杉征伐および関ヶ原の戦いに加わり、慶長10年(1605)徳川秀忠将軍宣下拝賀上洛に供奉し、慶長12年(1607)には駿府城築城の普請奉行など歴任しております。

亡くなった慶長17年当時の消息は不明です。徳川家臣団として江戸に移住していたかが明らかでなく、一方、豊臣氏は健在でしたので、江戸と大坂の両方にお仕えする状況でありました。従って、江戸、大坂、伏見、京都、美濃加茂(岐阜)、静岡などで亡くなられた可能性があります。

寛政11年(1799)、幕府は『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』を編纂することになり、各大名・旗本に家系譜の提出を求めました。その際、幕府への提出記録事項の中には、「歴代墓所」という項目が含まれておりました。当時の佐藤家10代目当主・信顕は、提出事項の墓所について、歴代葬地を調査し、幕府へ提出しましたが、初代・堅忠の墓所は『諸家譜』に記載がありません。おそらく信顕は、始祖の墓所を探索したと思われますが、探し出すことができなかったのでしょう。

12代目当主・信禮は、弘化4年(1847)始祖・堅忠の供養碑を、江戸浅草(現在・台東区松が谷)の海禅寺に建てますが(昭和2年に当山へ移設)、当時も墓所は不明であったため、子孫に墓所の探索を行うよう、供養碑に次のような銘文を残したのです。

始祖堅忠公卒後閲年既久矣後世百方索其墓而未有克獲也今茲弘化丁未冬十二月追贈院號権設碑于海禅寺以奠香火致報本之意焉子孫當益刻心索其故墓而勿忘 十二世孫信禮謹識

現当主・任宏氏も、佐藤家ゆかりの土地を訪ね、広範囲にわたり捜索をしておりますが、いまだ始祖の葬地が見つかりません。佐藤家2代目・継成の墓地は、静岡・寶泰寺にあり、3代目・吉次は、岐阜伊深・正眼寺の開基として、正眼寺に葬られております。いずれも臨済宗の名刹であり、始祖・堅忠の葬地が判らないことは、大変残念であります。



2005年4月より、当ウェブサイトにて情報を呼びかけておりました。今日までいくつかの情報をお寄せいただきました。提供者様には、この場を借りて心よりお礼申し上げます。ただ、調査の進捗が芳しくなく、いまだに情報提供者様にお返事ができませず、大変に申し訳なく思っております。

調査に動きがありましたら、当ウェブサイトにて随時発表いたします。

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since 2005/4/12 - last modified 2013/8/30


テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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