門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし (一休禅師)
一休宗純(いっきゅうそうじゅん)
応永元年(1394)1月1日~文明13年(1481)11月21日
父は第100代・後小松天皇。応永6年京都安国寺の象外禅鑑の弟子として出家、後、近江大津の堅田にある祥瑞庵の華叟宗曇に参じた。27才の時大悟、華叟の法を嗣ぐ。
一休禅師の言動は奇抜風狂で知られ、奇行ばかりが取りざたされるが、それは自ら臨済禅の正統を担うものとしての素直な接化が顕れているに他ならない。名利に流れる風潮を嫌い、簡素な生活を送り、うわべだけの戒律遵守ではなく、禅の核心すなわち見性道悟の徹底を見せつけたに過ぎないのだ。
例えば、正月というおめでたい日に、ドクロを持って街頭に立ち、「ご用心、ご用心」と言ってのける。人間一皮むけば、みんなこの姿だ、金持ちも貧乏もない、目出度いも目出度くもない、めでたさに浮かれていては真実を見誤るぞ、さあ真実絶対の自己を見極めるんだ! という強烈なメッセージだ。
こんな一休のスタイルは、当時の民衆を引きつけた。多くの茶人、文人、商人などが禅師に参禅し、それは茶道が生まれる礎となった。後の時代に「とんち小僧の一休」として愛されるのには、洒脱な言行のみならず、大衆に好かれ尊敬されていたという事実があったからだ。
応仁の乱で消失した大徳寺を再建し、荒廃した妙勝寺(大応国師と大燈国師ゆかりの寺)を酬恩庵として復興した。ざんばら髪に無精ヒゲという風貌は、形式化する禅の在り方へのアンチテーゼであり、民衆の近くにいることへのアピールだ。現に仮名法語で民衆に法を説き表し、禅の大衆化に貢献した。
一休が生まれた応永元年は、南北朝の分裂が終わり、両朝が合体した2年後である。旧支配勢力と新興勢力の対立、下克上や土一揆、禅宗と旧仏教との対立、やがて応仁の乱から戦国時代へと進む、穏やかならぬ時代であった。
一休は天皇の御落胤だ。血統としては皇族であるのに、事情が許さず宮廷外で生まれた。一休は、若い頃に自殺未遂をしている。尊敬する師匠の死と、人生に悲嘆したことが自殺の原因とされているが、生まれながらに重い荷物を背負っている一休が、青年時に自分の人生を深く考え、身の不幸を呪ったとしても不思議はない。
血統と現実のギャップ、権力に媚びる宗教家たち、それらが一休の反骨精神、いや、正義を作りだしたのである。いわば一休は、争乱の時代のヒーローだったのだ。なぜわざわざボロボロの衣を着たか? なぜ浄土真宗の蓮如と親交がもてたのか? なぜすすんで肉食淫行したか? その答えを見つけるためには、時代背景とともに一休の生涯をつぶさに見て取ることが必要であろう。
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