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いま、ここ(最終話)

常に自主性を持って、どこでも自分の力を出し切るよう努力する。自分というものを自覚して、判断に迷わないよう、気を付ける。心は暴れ馬の如し。手綱を持って制御すべし。

結論。

問題は「選択」。分かれ道がいくつかあるから、あーだこーだと考え、悩み、苦しむ。心があっちこっちへ行ってしまうから、パニックになったりする。選択さえビシッと決まれば、悩む必要がない。つまりそれが、「いま、ここ」の答え。

そのためには、「ゆとり」が必要。深呼吸して気楽な気持ちでいること。時間ギリギリで動くのではなく、余裕を持って行動するのです。そして、自分の下した選択に、少しでいいから自信を持つことです。


でもやっぱり、瑞巌和尚も気を付けるように言っているけど、詐欺にだまされないようにするのは難しいですね。私も何回かだまされてますよ。万が一、振り込め詐欺にあったら、すぐに警察に行ってくださいね。


それでは最後に釈尊の金言で締めさせていただきます。

「その行いが親切であれ。何ものでも分かち合え。善いことを実行せよ。そうすれば、喜びに満ち、苦悩を滅すであろう。」
〜ダンマパダ 第25章
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いま、ここ(第3話)

インドには、馬車の喩えがあります。

「アートマンを馬主と知れ。肉体を馬。覚を御物。意を手綱と心得よ。賢者たちは諸々の知覚器官を馬と呼び、諸知覚に対応する諸対象を道路と呼んでいる。」

と、ヨガでは厳密に説いているのですが、ちょっと難しいですね。簡単に言ってしまうと、心は馬で、いつでも暴走してしまうので、御者である自己(セルフ)が手綱をとって制御しなさい、ということです。

眼、耳、鼻、舌、身体という感覚器官は、常に働いていて、色かたちを認識し、音を聴き、香りを嗅ぎ、食べ物を味わい、身体で暑さや寒さなどを感じ取っています。それら感覚からくる作用で、心が、ことの良し悪しを判断認識し、苦楽を作り出しているのです。

よく馬を調教し、御者の手で思い通りに動かすならば、馬は暴走せず、私たちの心はいつも平静でいられるはずです。

この喩えを「いま、ここ」に当てはめてみると、少しはイメージができますでしょうか。つまり、「いま、ここ」をしっかり行うことは、御者が馬の手綱を握り、しっかり制御していることになります。

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いま、ここ(第2話)

じゃあ、こういう話はどうでしょう。

瑞巌の彦和尚、毎日自ら主人公と喚び、復自ら応諾す。乃ち云く、
惺々着、喏。他時異日、人の瞞を受くること莫かれ、喏々と。
(ずいがんのげんおしょう、まいにちみずからしゅじんこうとよび、またみずからおうだくす。すなわちいわく、せいせいじゃく、だく。たじいじつ、ひとのまんをうくることなかれ、だくだくと。)

出典は『無門関』第12則「巌喚主人」。瑞巌師彦和尚という人は、毎朝自分自身に語りかけていたそうな。
「おい、自分よ。」「はい、目覚めておりますとも。」
「うっかりして、振り込め詐欺にひっかかるでないぞ。」「はい、はい。」

誤解があるといけないので書きますけど、この和尚は、べつに精神分裂症とか二重人格ってわけじゃあないですよ。しっかりとしたお悟りを体得した上で、毎日自分に言い聞かせていたのです。言ってみれば、おじいちゃんが毎朝仏壇にお経を唱えて、ご先祖様にお祈りしているのと同じようなものです。

私たちの人生は「分かれ道」の連続であり、いつでも取捨選択をせまられ、迷い苦しんでいるのだとはいえないでしょうか。「いま、ここ」の自分に迷いが生じた時には、ちょっと間を置いて、自分の心に問いかけてみてください。「いま、ここ」はどうであろうか、自分の頭ン中はクリアだろうか、と。臨済や瑞巌の言葉を思い出すのです。しっかりと自分自身を見つめていなさい。いろいろと迷いが生じる場面が多いけれど、自分自身を見失うことなく、しっかり行動しなさいよ、という忠告を。


…だけど残念なことに、詐欺に遭う時には「迷い」がなく、コロッと引っ掛かっちゃうんですよね…(涙)
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いま、ここ(第1話)

仏教におけるテーマに、「いま、ここ」という言葉がある。つまり、過去の事柄にくよくよするのではなく、何が起こるかわからぬ未来を夢見るのでなく、今現在の自分自身を、地に足つけて精一杯生きよ、ということである。

でも、これは本当に難しい。

仕事で失敗すれば、へこんで気分が落ち込むのが普通だ。明日のプレゼンは上手くできるかなぁ、などと不安になるのが普通だ。「いま、ここ」が大事なのは十分わかっていますよ、そんなこと。でもさぁ、あれこれ考え込まなくてもいられるほど、図太い神経も持っていないし、はたまた、思慮の足りないお気楽な性格でもないのですよ、私は。

そうなのである。仏教の言葉はありがたいものが多いけど、でもさぁ、実際に行動するのは難しいんだって!


きっと、昔の人だって、同じことを考えていたんだ。だからこそ、私たちを叱咤激励してくれる、いろいろな言葉が残っているのだろう。

たとえば臨済禅師。

「随処に主と作れば、立処皆な真なり。」(ずいしょにしゅとなれば、りっしょみなしんなり。)

『臨済録』の中のこの言葉は、私たちを鞭撻して止まない、慈愛の言葉だ。
煩悩だってお悟りだって、みんな自分自身の中にあるのだから、外に向かって答えを求めるのは大間違いだ。真実は常に自分の中にある。いつでも自主性を持って、分別を働かせよ! 欲や煩悩に振り回されるなよ。

と注意してくれている。

え〜?! こんな難しい言葉で注意してくれているんですか? さっぱりわからないよ。っていうのが、禅宗の教えなんだから困ったものである、ホントに。
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履けなかった足袋が…

医者から体重を落とすように指導されているが、体重を減らすのは容易ではないのだ。

そこで、

ウォーキングを始めた。
食事の量を減らした。

そのかいあって、僅かずつだが体重が減ってきた。うれしい♪

すると、

ここ最近、きつくて履けなかった足袋が、今日履けた。

今のところ、これが一番うれしかったことかな。



記事書くのも、随分と久しぶりなのだ。
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