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禅宗(臨済宗・曹洞宗)の四弘誓願

衆生無辺誓願度 (しゅじょう・むへん・せいがんど)。

煩悩無尽誓願断 (ぼんのう・むじん・せいがんだん)。

法門無量誓願学 (ほうもん・むりょう・せいがんがく)。

仏道無上誓願成 (ぶつどう・むじょう・せいがんじょう)。

● 第1句 (衆生は無辺なれども 誓ってどせんことを願う) ~ この世の中には迷い・苦しみが多く、助けを必要としているものがたくさんいます。自己中心を捨て、他の優先を常に考慮し、心に誓って、苦しんでいる人・自然環境などのあらゆるものたちに、温かい手をさしのべようと思います。

● 第2句 (煩悩は尽きることなけれども 誓ってだんぜんことを願う) ~ 煩悩は尽きることがないけれども、心に誓って、わき起こる欲や煩悩と戦い、迷い・煩いに束縛されない、素直な生活ができるように、精進努力します。

● 第3句 (法門は無量なれども 誓ってまなばんことを願う) ~ 仏教の教えを学ぶことは、簡単なことではありませんが、心に誓って、これらの教えを理解・実践するように心がけます。

● 第4句 (仏道は無上なれども 誓ってじょうぜんことを願う) ~ おさとりを開くまでには、長い道のりを覚悟しなければならないでしょう。しかし、本来私たちは、いつでもおさとりを持ち合わせていて、それに気が付かないだけなのだ、ということを常に信じて、心に誓って、仏道成就を願いましょう。

since 2004/8/2 - last modified 2005/3/17


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天台宗の四弘誓願

天台宗ではこう読みます。

衆生無辺誓願度(衆生は無辺なれども 誓ってどせんことを願う)

煩悩無辺誓願断(煩悩は無辺なれども 誓ってだんぜんことを願う)

法門無尽誓願知(法門は無尽なれども 誓ってしらんことを願う)

無上菩提誓願証(菩提は無上なれども 誓ってしょうせんことを願う)

since 2004/8/2 - last modified 2013/8/29


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浄土宗の四弘誓願

浄土宗ではこう読みます。4句ではなく6句で、4つの誓願を述べています。

衆生無辺誓願度(衆生は無辺なれども 誓ってどせんことを願う)

煩悩無辺誓願断(煩悩は無辺なれども 誓ってだんぜんことを願う)

法門無尽誓願知(法門は無尽なれども 誓ってしらんことを願う)

無上菩提誓願証(菩提は無上なれども 誓ってしょうせんことを願う)

自他法界同利益(自他、法界 りやくを同じくし)

共生極楽成仏道(ともに極楽にしょうじ 仏道をじょうぜんことを)

since 2004/8/2 - last modified 2013/8/29


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真宗の四弘誓願

真宗(浄土真宗)ではこう読みます。

衆生無辺誓願度(衆生は無辺なれども 誓ってどせんことを願う)

煩悩無数誓願断(または煩悩無量誓願断)(煩悩は無数(または無量)なれども 誓ってだんぜんことを願う)

法門無尽誓願学(法門は無尽なれども 誓ってまなばんことを願う)

仏道無上誓願成(または仏道無上誓願証)(仏道は無上なれども 誓ってじょうぜん(またはしょうせん)ことを願う)

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日蓮宗の四弘誓願

日蓮宗ではこう読みます。

衆生無辺誓願度(衆生は無辺なれども 誓ってどせんことを願う)

煩悩無数誓願断(煩悩は無数なれども 誓ってだんぜんことを願う)

法門無尽誓願知(法門は無尽なれども 誓ってしらんことを願う)

仏道無上誓願成(仏道は無上なれども 誓ってじょうぜんことを願う)

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真言宗の五大願

真言宗では、『五大願』といいます。

衆生無辺誓願度 (衆生は無辺なり 誓ってすくわんことを願う)

福知無辺誓願集 (福知は無辺なり 誓ってあつめんことを願う)

法門無辺誓願学 (法門は無辺なり 誓ってまなばんことを願う)

如来無辺誓願事 (如来は無辺なり 誓ってつかえんことを願う)

菩提無上誓願証 (菩提は無上なり 誓ってさとらんことを願う)

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お寺で朝ヨガ

智光院の本堂でヨガ教室を開催しております。

● 毎月第1土曜日、朝8時から9時20分まで。1月のみ第2土曜日になります
● 講師 武井悠桂先生(オアシスヨガプレイス主宰)
● ヨガマット(または大きめのバスタオル)をお持ちください
● 服装は、通気性があり楽に身体を動かせるもの(着替えの部屋あります)
● 基本的に、食後2~3時間および入浴前後30分の練習は避けますので、智光院の朝ヨガ前には、朝食を摂らない方がよいでしょう
● 参加費一人500円お願いいたします

伝統に忠実に、かつ親しみのあるヨガです。参加希望の方は、開始時間(朝8時)に間に合うように、智光院へお越しください。

智光院への行き方は「行き方地図」のページをご参照ください。

2013/8/27


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智光院の坐禅会

定例坐禅会「無礙禅会」

毎月第2日曜日 午後4時30分〜6時。7月と8月は休会です。

詳細は「坐禅会」のページをご参照ください。

2013/8/27


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松ノ木手づくりマルシェ

「手づくり」をテーマに、杉並近郊のお店やアーティストさんたちが集まって、小さいマルシェを開きます。

不定期開催。雨が降ったら中止になります。

情報は「松ノ木手づくりマルシェ」のブログまたはフェイスブックをチェックしてください。当サイトの右サイドバーにあるリンクから入れます。

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since 2013/8/27 - last modified 2015/4/9

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無相大師遺誡 概説

「遺誡(ゆいかい)」とは、僧が亡くなる時に、後人への訓戒として書き残した言葉のことです。

『無相大師遺誡(むそうだいしゆいかい)』は、妙心寺開山・関山慧玄(かんざんえげん)禅師が亡くなる直前に、弟子の授翁宗弼(じゅおうそうひつ)禅師に口伝したものです。授翁は末代の弟子たちへの開山遺誡とするため、侍者の雲山宗峩(うんざんそうが)禅師に、この口伝を清書させました。この清書のことを『妙法山正眼禅寺誌』などでは「出世の始末」と記載しています。その後清書は幾多の法孫の手元を渡り、今日「無相大師」の勅号を冠し、現代に流布されています。

内容の大部分は、大應・大燈両国師の略歴になっており、両祖の徳を称賛し、大恩を謝しています。

この遺誡で一番重要な部分は「汝等請う其の本を務めよ」の一文であります。「自己とは何か」「仏とは何か」を徹底して参学追求しなさい、ということです。

無相大師遺誡は、臨済宗妙心寺派の僧侶が常に胸間に秘在し、その意味を知らなくてはならないものでありますが、現代文に訳された書籍等を見つけることができませんでした。そこで、自己の浅学非才を顧みず、ここに意訳を試みました。意訳にあたっては、原文の単純な書き換えでは理解が難しい部分には、多少の加筆をしてあります。大変ありがたいことに、年長の和尚様方から間違いをご指摘頂いたりもいたし、最初の発表から時を経るごとに、原文と意訳の開きも狭まっていると思います。しかしながら未だ間違いがあれば、どうぞこれからも諸大徳より指摘・校正・叱正など頂ければ幸いです。

原文は『増補 妙心寺史』(川上孤山・著/荻須純道・補述)から引用させて頂きました。

■参考文献
『妙法山正眼禅寺誌』/正眼寺誌編纂委員会/正眼寺
『増補 妙心寺史』/川上 孤山 著/荻須 純道 補述/思文閣
『簡訳 臨済宗読誦聖典』/西村 惠信 監修/四季社

since 2005/3/17 - last modified 2013/8/30


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無相大師遺誡 #1

妙心開山無相大師遺誡

宿昔吾大應老祖正元之間超風波大難地蚤入宋域遇着虚堂老禅于淨慈、眞參實證末後徑山盡其蘊奥是故得路頭再過之稱受兒孫日多之記單傳楊岐正脉吾於朝者老祖之功也、次先師大燈老人參得老祖于西京侍者京輦巨峯其随從之際、脇不到席者多年頗有古尊宿風、卒受老祖淵粋命長養者二十年、果彰大應遠大之高徳起佛祖已墜之綱宗殘眞風不地遺誡鞭策後昆者先師之功也、老僧爰受花園仙帝敕請創開此山先師嚼飯養嬰兒、後昆直饒有忘却老僧之日、忘却應燈二祖深恩不老僧兒孫、汝等請務其本、白雲感百丈之大功虎丘歎白雲之遺訓、先規如茲誤而莫摘葉尋枝好。



(題名)
『妙心開山無相大師遺誡』

(現代語解釈)
『大本山妙心寺開山・無相大師関山慧玄禅師が残された後人への訓戒』



(原文1)
宿昔吾が大應老祖正元の間、風波大難の地を超えて、蚤に宋域に入って虚堂老禅に淨慈に遇着して真参実証、末後径山にその蘊奥を尽くす。

(むかしわがだいおうろうそしょうげんのあいだ、ふうはだいなんのちをこえて、つとにそういきにいってきどうろうぜんにじんずにぐうじゃくしてしんさんじっしょう、まつごきんざんにそのうんのうをつくす。)



(意訳1)
その昔、先々代の師匠である大應国師・南浦紹明禅師は、正元元年(1259)に、荒れ狂う海を越え、険しい山中を歩き、大変な苦労を重ねて中国・宋へと渡った。
いくつかの寺院に参問した後、今の浙江省杭州にある淨慈寺に辿り着き、そこで虚堂智愚禅師と出会った。
大應国師は、虚堂智愚禅師のもとに留まって参禅工夫を実践され、虚堂智愚禅師が径山万寿寺に移られると、国師も虚堂智愚禅師に随従し、径山に修行の場を移し、そしてついに大悟徹底された。

since 2005/3/17 - last modified 2013/8/29



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無相大師遺誡 #2

(原文2)
是の故に路頭再過の称を得て、児孫日多の記を受け、楊岐の正脈を吾が朝に単伝する者は、老祖の功なり。

(このゆえにろとうさいかのしょうをえて、じそんにったのきをうけ、ようぎのしょうみゃくをわがちょうにたんでんするものは、ろうそのこうなり。)



(意訳2)
大悟された大應国師は、その2年後に虚堂智愚禅師に暇を告げ、帰国することとなった。帰国する際、虚堂智愚禅師からの手紙、いわゆる「児孫日多の記」を受け取った。それは『涅槃(宋)の道を極め、再びもと(日本)の道へ帰ってゆく』と人徳を称えられ、『わが弟子はこれから先、日ごと多くの高徳を輩出するであろう』という期待の言葉が書かれたものである。
こうして国師は、文永4年(1267)に帰国され、この臨済宗楊岐派の正法を、わが国に直伝された。まさに大應国師の功績は計り知れない。

since 2005/3/17 - last modified 2013/8/29



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無相大師遺誡 #3

(原文3)
次に先師大燈老人、老祖に西京に参得して、京輦巨峯に侍者たり。其の随従の際、脇席に到らざること多年、頗る古尊宿の風あり。

(つぎにせんしだいとうろうにん、ろうそにせいけいにさんとくして、けいれんこほうにじしゃたり。そのずいじゅうのあいだ、わきせきにいたらざることたねん、すこぶるこそんしゅくのふうあり。)



(意訳3)
さて次に、先代の師匠である大燈国師・宗峰妙超禅師であるが、師は嘉元3年(1305)、京都・韜光庵に住持していた大應国師に参禅し、その後大應国師が、京都・嘉元寺、鎌倉・建長寺に移られた時にも、侍者として随侍した。
その期間、怠ることなく参禅弁道に励み、その姿は、並みいる歴参の僧を超える、高僧としての風格をすでに持っていた。

since 2005/3/17 - last modified 2013/8/29



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無相大師遺誡 #4

(原文4)
卒に老祖淵粋の命を受けて長養すること二十年、果たして大應遠大の高徳を彰わし、仏祖已墜の綱宗を起こし、真風不地の遺誡を残して、後昆を鞭策する者は、先師の功なり。

(ついにろうそえんすいのめいをうけてちょうようすることにじゅうねん、はたしてだいおうおんだいのこうとくをあらわし、ぶっそいついのこうじゅうをおこし、しんぷうふちのゆいかいをのこして、こうこんをべんさくするものは、せんしのこうなり。)



(意訳4)
徹底した修行の末、大悟を認められた大燈国師は、大應国師より印可証明(悟りの証)と、これから後の修行についての命令を受けて、その直後より20年間、「聖胎長養」と呼ばれる総仕上げの修行に入られた。
その長期修行の結果、ついに大應国師より継承された高徳と資質が、世間に知られるところとなった。釈尊入滅後の末法思想の今日にあって、仏教の大綱と禅宗教義の布教に尽力され、そして、真実の仏祖の教えを堕落させることのないように、という願いを遺誡として残された。われら弟子どもを、今もなお指導鞭撻し、励ましている。大燈国師の功績もまた、賞賛し余りあるものである。

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無相大師遺誡 #5

(原文5)
老僧爰に花園仙帝の敕請を受けて、此の山を創開するも、先師飯を嚼んで嬰児を養う。後昆直饒老僧を忘却するの日ありとも、應燈二祖の深恩を忘却せば、老僧が児孫にあらず。

(ろうそうここにかえんせんていのちょくしょうをうけて、このやまをそうかいするも、せんしはんをかんでようにをやしなう。こうこんたといろうそうをぼうきゃくするのひありとも、おうとうにそのじんのんをぼうきゃくせば、ろうそうがじそんにあらず。)



(意訳5)
私(無相大師・関山慧玄禅師)は、花園上皇の勅命を頂戴し、この正法山妙心寺を開創したが、これは先代の師匠・大燈国師が、まるで幼い子供に対して、ご飯を噛んで柔らかくしてから与えるように、われわれ修行者を誠心誠意鍛え育て上げてくれたからこそ、今この縁が結ばれているのである。
これから先、遠い後世になり、我が法系(師匠と弟子のつながり・仏法の系譜)が栄えて弟子が増えたとして、いつかは私のことが忘れ去られる時代が来るであろう。
しかし、大應・大燈両国師の深い恩愛は決して忘れてはならない。もしも両祖師への報恩感謝を忘れたとしたら、その弟子どもは私の法孫(系譜に連なる僧)ではない。「関山慧玄の法系につながる者だ」と言ってはならないし、それを私が決して許さない。

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無相大師遺誡 #6

(原文6)
汝等請う其の本を務めよ。

(なんじらこうそのもとをつとめよ。)



(意訳6)
あなたたちに一番重要なこと、それは己事究明、おのれとは何者であるか? これを突き止めることである。

since 2005/3/17 - last modified 2013/8/29


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無相大師遺誡 #7

(原文7)
白雲は百丈の大功を感じ、虎丘は白雲の遺訓を歎ず。先規茲の如し、誤って葉を摘み枝を尋ぬること莫んば好し。

(はくうんはひゃくじょうのだいこうをかんじ、くきゅうははくうんのゆいくんをたんず。せんきかくのごとし、あやまってはをつみえだをたずぬることなくんばよし。)

(『無相大師遺誡』おわり)



(意訳7)
白雲守端禅師は、百丈懐海禅師が昔、禅宗道場の規則を整備されたという、大きな功績に深く感服し、虎丘紹隆禅師は、白雲守端禅師の残された訓戒を、称歎し奉読していた。
このような過去の祖師方の行状や報恩行は、たくさん残っており、皆このようにして、祖師方の恩愛を感じ、自己の訓戒としていたのだ。
間違っても、葉を摘んだ後に、その木が何であるかを確認するような、本末転倒な真似をしてはならない。日常の修行をおろそかにせず、「自己とは何か」を専一に追求すること、決して仏法の根本儀を忘れてはならないぞ。

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白隠禅師坐禅和讃 概説

『白隠禅師坐禅和讃(はくいんぜんじざぜんわさん)』は、その経名にあるとおり、江戸時代の臨済宗の僧・白隠慧鶴禅師が作られた和文のお経です。その中心に説かれているのは、坐禅に代表される「禅定(ぜんじょう)」と呼ばれる実践行です。禅定とは「無神経・無感覚にならず、外界の刺激を受けていながら、精神を統一し、雑念を抑え、静かに思慮すること」です。

布施をするにも、戒律を守るにも、称名(しょうみょう)を唱えるにも、全ては「心のあり方」が問題になります。心が落ち着いていればこそ「正しい判断」や「正しい行い」ができるのであり「何事にも徹する」ことができるのです。禅定は、そのための基本となります。

静かに坐って禅定を慮(おもんぱか)る「坐禅」は、インドに於いて古くから行われてきた一種の瞑想方法であります。精神統一のための修行として、手軽にできることもあり、現在では仏教圏以外の国でも坐禅は行われています。

私たちの日常は、誘惑・苦難・不安にあふれています。これらは、正しい判断を狂わす原因となります。これらに打ち克つことができたなら、どんなに安心できるでしょうか。『白隠禅師坐禅和讃』は、そのためのヒントを提示してくれています。

──「奇なる哉、奇なる哉、一切衆生悉く如来の智慧徳相を具有す。但、妄想執着を以ての故に証得せず。」
(きなるかな、きなるかな、いっさいしゅじょうことごとくにょらいのちえとくそうをぐゆうす。ただ、もうぞうしゅうじゃくをもってのゆえにしょうとくせず。)

( なんて素晴らしいことだろうか、世界中すべてのものには、真実の心=仏心が、もともと備わっているではないか。しかし、妄想や煩悩、欲や差別が邪魔をして、私たちは仏心に気付かずにいるのだ。)

お釈迦様は、坐禅によりおさとりを得ました。その瞬間、この言葉を連呼されたと伝えられています。同じように、坐禅和讃の第1句には「衆生本来、仏なり」とあります。お釈迦様も白隠禅師も、私たちが仏であると明言しています。私たちがさとれないのは「仏心」を信じないためであり、禅定力が弱いためであります。お釈迦様が超人ではなく、私たちも凡人ではない、ということを信じて、仏教の実践行につとめましょう。

■参考文献
『禅宗聖典講義』/伊藤 古鑑 著/臨済宗青年僧の会
『白隠禅師坐禅和讃講話』/山田 無文 著/春秋社
『白隠禅師坐禅和讃』/春見 文勝 著/神宮寺花園会


*原文と意訳を、表形式で閲覧できます。→ 『白隠禅師坐禅和讃』解説(旧ウェブサイト仕様)


since 2005/1/27 - last modified 2014/4/21

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白隠禅師坐禅和讃 #1

(題名)
『坐禅和讃』

(現代語解釈)
『坐禅をたたえる詩』『坐禅によって培われる禅定を賛嘆し、以って苦しみを除く和語のお経』



(原文1)
衆生本来仏なり。水と氷のごとくにて。水をはなれて氷なく。衆生の外に仏なし。

(しゅじょうほんらいほとけなり。みずとこおりのごとくにて。みずをはなれてこおりなく。しゅじょうのほかにほとけなし)



(意訳1)
私たちは、皆生まれながらに、仏さまと同じ心を持ち合わせています。それはあたかも、「水」と「氷」の関係のようです。
氷は、水が固まってできたものであり、もとは同一のものです。水蒸気や雲も、水が変化したものです。水、氷、蒸気は、それぞれ形が違いますが、全て同じものであります。一般に「さとり」と呼ばれ、何か超人的な能力と思われがちな心も、また、凡人と思っている私たちの心も、本当は同一の「仏心(ぶっしん)」なのです。その「仏心」は、遠く離れた天国にあるわけではなく、水と氷のように、私たち自身の肉体と、その心を離れて存在するものではありません。

since 2005/1/27 - last modified 2014/4/19


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白隠禅師坐禅和讃 #2

(原文2)
衆生近きを知らずして。遠く求むるはかなさよ。たとえば水の中に居て。渇を叫ぶがごとくなり。

(しゅじょうちかきをしらずして。とおくもとむるはかなさよ。たとえばみずのなかにいて。かつをさけぶがごとくなり)



(意訳2)
ところが私たちは、誰でも「仏心」を持っている、ということを信じないために、選ばれた聖人のみに「仏心」が宿っていて、凡人には、さとる資格がないものだ、と思っているのです。または、厳しい修行を行った末に、ようやく外部から「仏心」が降臨してくるものだ、と思っているのです。
それは例えて言うならば、水の中にいて、のどが渇いた、と叫んでいる(周りは全て仏心であるのに、仏心を信じず、得ようともしない)ようなものであります。

since 2005/1/27 - last modified 2005/3/17


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白隠禅師坐禅和讃 #3

(原文3)
長者の家の子となりて。貧里に迷うに異ならず。六趣輪廻の因縁は。己が愚痴の闇路なり。

(ちょうじゃのいえのことなりて。ひんりにまようにことならず。ろくしゅりんねのいんねんは。おのれがぐちのやみじなり。)



(意訳3)
また、金銀財宝がつまった蔵のある家に、その子供として生まれていながら、その蔵があることを知らずに乞食をしている(仏心という宝を、生まれながらに持っていることを、知らずにいる)ようなものです。
人間は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上(じごく・がき・ちくしょう・しゅら・にんげん・てんじょう)、という6つの世界(六趣(ろくしゅ)または六道(ろくどう))を生まれ変わる、とされ、それは「輪廻転生(りんねてんしょう)」と言われています。悪行の結果として、地獄・餓鬼・畜生の3つの悪趣(あくしゅ)に生まれ、善行の結果として、修羅・人間・天上の3つの善趣(ぜんしゅ)に生まれる、とされています。そして、苦しみからの解脱は、3つの善趣に転生すること、と考えています。しかし、そのような考えは、私たちが愚かで、仏心を信じないがために、そう考えるのです。もともと釈尊の教えでは、私たちの苦しみには、必ず原因があり、その原因を無くせば苦しみは消滅する、という考え方です。その教えを知らないから、私たちは輪廻転生に、救いを求めているのです。

since 2005/1/27 - last modified 2014/4/19


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白隠禅師坐禅和讃 #4

(原文4)
闇路に闇路を踏そえて。いつか生死を離るべき。夫れ摩訶衍の禅定は。称歎するに余りあり。

(やみじにやみじをふみそえて。いつかしょうじをはなるべき。それまかえんのぜんじょうは。しょうたんするにあまりあり。)



(意訳4)
それは、暗い夜道を、灯りも点けずに歩いていくようなものです。暗い夜道を歩いていっても、目的地に辿り着くのは難しく、これでは、苦しみから抜け出すどころか、さらに苦しみの迷路に入り込んでしまいます。
大乗仏教(だいじょうぶっきょう)と呼ばれる、現在の日本仏教の教えの中に、「六波羅蜜(ろくはらみつ)」という6つの実践徳行があります。すなわち、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧(ふせ・じかい・にんにく・しょうじん・ぜんじょう・ちえ)、という、仏教徒としての大切な行いのことです。その中でも「禅定波羅蜜(ぜんじょうはらみつ)」は、最も重要であります。

since 2005/1/27 - last modified 2014/4/19


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白隠禅師坐禅和讃 #5

(原文5)
布施や持戒の諸波羅蜜。念仏懺悔修行等。其の品多き諸善行。皆この中に帰するなり。

(ふせやじかいのしょはらみつ。ねんぶつさんげしゅぎょうとう。そのしなおおきしょぜんぎょう。みなこのうちにきするなり。)



(意訳5)
なぜ「禅定波羅蜜」が重要なのでしょうか? その理由は、布施・持戒・忍辱・精進・智慧の各実践行の他にも、仏教徒のつとめる行いとして、「念仏を行う」「日々反省をする(自分の過失を認め、叱責を甘受し、悔い改めること)」「毎日の生活の中でするべき勤めをする」といった、功徳(くどく)を積むためのいろいろな行いがありますが、これらの実践には、すべて「禅定」が必要不可欠だからです。

since 2005/1/27 - last modified 2014/4/19


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白隠禅師坐禅和讃 #6

(原文6)
一座の功をなす人も。積みし無量の罪ほろぶ。悪趣いずくに有ぬべき。浄土即ち遠からず。

(いちざのこうをなすひとも。つみ むりょうのつみほろぶ。あくしゅいずくにありぬべき。じょうどすなわちとおからず。)



(意訳6)
例えば、たった一度の坐禅経験でも、その坐禅が真剣な坐禅であったならば、その功徳はいくつもの悪行を消し去るに値します。なぜかと言えば、正しい坐禅は、強大な禅定力(ぜんじょうりき)を養うことができるからです。
果たして、3つの悪趣など、どこに存在するのでしょうか? 西方十万億仏国土(さいほうじゅうまんおくぶっこくど)の彼方に、阿弥陀如来(あみだにょらい)の住む極楽浄土(ごくらくじょうど)がある、と言われていますが、そんな気の遠くなるような世界に行けるとでもいうのでしょうか? ひとたび坐禅をするならば、それは私たちの妄想に過ぎないことが解るはずです。なぜなら、坐禅をしている間は、心は静寂であります。静寂な心の中が、極楽浄土そのものだからです。禅定力があれば、どんなに汚れた世の中にいても、この場所がそのまま清浄なる世界であることに気付き、阿弥陀如来と自分とが一体であることに気付くからです。

since 2005/1/27 - last modified 2014/4/19


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白隠禅師坐禅和讃 #7

(原文7)
辱なくも此の法を。一たび耳にふるる時。讃歎随喜する人は。福を得ること限りなし。

(かたじけなくもこののりを。ひとたびみみにふるるとき。さんたんずいきするひとは。ふくをうることかぎりなし。)



(意訳7)
幸いにも私たちは、釈尊(しゃくそん)の世から伝えられている、さまざまな説法を、「お経」という形で読むことができます。お経を読んだり聞いたりした時に、もしもあなたが「有り難いなあ」「うれしいなあ」と思ったとすれば、それは釈尊の感じた幸福感と、全く同じものなのです。

since 2005/1/27 - last modified 2014/4/19


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白隠禅師坐禅和讃 #8

(原文8)
いわんや自ら回向して。直に自性を証すれば。自性即ち無性にて。すでに戯論を離れたり。

(いわんやみずからえこうして。じきにじしょうをしょうすれば。じしょうすなわちむしょうにて。すでにけろんをはなれたり。)



(意訳8)
ましてや、自ら率先して読経をして、その功徳を、世の中一切全てのものに与えたい、と願うなら、その慈悲心こそが仏心に他ならないのです。私たちには、真実の清浄な心が備わっていたのだ、と確信するはずです。その真実の心に、聖人・凡人の区別があるのでしょうか? このような区別や、善悪などの差別を超越した、ただ1つの仏心があるのみです。
その仏心は、形なく、得ることも、失うこともない、老若男女の別もない、生まれたままの純粋な心、捉えようにも捉えようのない、無心の心であります。そう自覚して得られた仏心は、他人には説明のしようがない、説明など不要な仏心であります。

since 2005/1/27 - last modified 2005/3/17


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白隠禅師坐禅和讃 #9

(原文9)
因果一如の門ひらけ。無二無三の道直し。無相の相を相として。行くも帰るも余所ならず。

(いんがいちにょのもんひらけ。むにむさんのみちなおし。むそうのそうをそうとして。ゆくもかえるもよそならず。)



(意訳9)
善い行いには、善い結果が得られます。悪い行いには、悪い結果が待っています。苦しみに直面した時、その苦しみには必ず原因があります。釈尊の言われた原因と結果の関係は、それぞれを縁(えん)によって結びつけています。種をまき、実を収穫するまでには、そこに、土壌・水・日光などの善い縁がなくてはなりません。私たちは、ともすれば結果ばかりを追ってしまいますが、因(いん) → 縁 → 果(か) という一連のプロセスが大切なことは、もうお解りかと思います。では、原因と結果の道理からは逃れられないのでしょうか? そうではありません。因果(いんが)の道理そのものは、大切な教えですが、これにとらわれている間は「迷い」であり「苦しみ」であります。それは、因と果とを、区別して考えているからです。区別するということは、つまり迷っているということです。禅定を養うことによって、このような区別から離れるのです。因/果、苦しみ/幸せ、と区別して考えている心は、私たちの心に他ならず、それは仏心にも違いないのです。禅定により区別を離れるならば、苦楽も一体、因果も一体、迷いすらも仏心と一体です。区別や差別を離れて、平等の入口を開けるならば、その先には、一本の真実の道が、まっすぐ延びているのみです。2つ、3つと分かれる迷い道など存在しないのです。
では、迷いを断ち切り、禅定力を養うためには、どうしたらよいのかを考えてみましょう。1つめは、「目で見えるものの、姿・形にとらわれないようにする」ということです。この世に永遠のものはなく、形あるものは全て、常に変化しています。永遠不変のものはない、と考えることにより、煩悩・執着(ぼんのう・しゅうじゃく)から離れることができるのです。煩悩・執着がなければ、欲望を抑えることができるのです。そうすれば、私たちの心は、どんな場合でも乱れることがないのです。とらわれを離れた心は、平安な心であり、「いつ」「どこで」「なにをして」いようとも、まるで我が家でくつろいでいるような安心感があるのです。

since 2005/1/27 - last modified 2014/4/19


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白隠禅師坐禅和讃 #10

(原文10)
無念の念を念として。謡うも舞うも法の声。三昧無礙の空ひろく。四智円明の月さえん。

(むねんのねんをねんとして。うたうもまうものりのこえ。ざんまいむげのそらひろく。しちえんみょうのつきさえん。)



(意訳10)
2つめは、「心で感じたこと、一念一念を悪く考えないようにする」ということです。私たちの脳は、絶えず思考をしています。一瞬ごとの思考、すなわち一念の積み重ねによって、記憶・学習をしています。しかし、もしも悪い念が積み重なったとしたら、そうして造られた記憶・学習は、悪い結果を招くことは明らかです。そう考えると、たとえ僅か一念でも、苦しみの原因になり、積もった念、すなわち、出来上がった記憶は、苦しみの結果となるわけです。一念に振り回されないことです。少なくとも、自分の記憶と、他人の記憶は、全く異なるものであり、他人が自分と同じ事を考え、行動するなどとは考えないことです。そのように毎日努めるならば、他人の言動に一喜一憂することなく、仮に苦言を聞いたとしても、大切なアドバイスだったと、肯定できるはずです。見るもの、聞くもの、全てが新鮮な法話であり、立ち居振る舞い、どれをとっても、仏祖の行いと変わらないのです。
このようにして養った禅定力を用いて、精神を統一してみましょう。身体中の感覚(眼で見る・耳で聴く・鼻で嗅ぐ・舌で味わう・皮膚で感じる・心で認識する)はそのままに、心を集注して、意識を乱れないようにするのです。それは一切のとらわれを離れた、自由自在の境地です。雲一つ無い青空が広がっているかのように、煩悩の無い、晴れやかな心になっているでしょう。 さらに、仏心から出てくる4つの智慧を信じることです。それは、【1】真実を見つめて、清い心を持つ(大円鏡智(だいえんきょうち))、【2】我見(がけん)・差別を捨てて、慈悲の心を持つ(平等性智(びょうどうしょうち))、【3】道徳行を無心でする(成所作智(じょうしょさち))、【4】物事を正しく判断して、不安を取り除く努力をする(妙観察智(みょうかんさっち))、これら4つの行いを、自分・他者の区別無く、行おうとすることです。この4つの智慧は、迷いの暗闇を明るくする光です。4つの智慧が相結ぶ時、あたかも中秋の名月のように、智慧の光は冴えわたり、たとえどんな困難に遭っても、真実の道を明るく照らし現してくれることでしょう。

since 2005/1/27 - last modified 2014/4/19


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白隠禅師坐禅和讃 #11

(原文11)
此の時何をか求むべき。寂滅現前するゆえに。当処即ち蓮華国。此の身即ち仏なり。

(このときなにをかもとむべき。じゃくめつげんぜんするゆえに。とうしょすなわちれんげこく。このみすなわちほとけなり。)

(『坐禅和讃』おわり)



(意訳11)
ここまでくれば、もう迷うことはありません。真実を、遠く離れたところに求める必要はありません。求めるどころか、おのずから目の前に広がっているのです。苦しみは消滅し、無念無相の世界が、静かなる大海のように広がっているのです。
私たちの日常そのものが浄土であり、日々が好日にして、幸せな毎日です。眼で見ること、耳で聞き取ること、身体で感じること、その全てが、仏祖と何ら変わらない生活であり、この自分自身こそが「仏心」そのものなのです。

(『坐禅和讃』おわり)

since 2005/1/27 - last modified 2014/4/19


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智光院の縁起

寛永7年(1630)、天野周防守雄光公の室・智光尼は、嗣子光得の逝去に際し、子の菩提を弔うため一寺建立を発願し、江戸覚印派の一僧侶・大麟玄綱(当時25才)に、東叡山(上野寛永寺)の東・車坂あたり(現在のJR上野駅近辺)の土地700坪を寄進しました。大麟和尚は、自分の師匠である覚印周嘉を開山(初代住職)に、兄弟子の古道宗亘を第二世に勧請し、自身は第三世住職として一寺を創建しました。ここに「智光院」が起立しました。

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その後、佐藤駿河守吉次公の助力により、起立から2年弱を経た寛永10年(1633)の春には、諸堂宇が整いました。吉次公はその後寛文9年(1669)にも、諸堂の再建をされました。

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宝永2年(1705)、智光尼は戒名を変更しました。最初の戒名は「桂昌院殿心月智光尼大姉」、それが「智光院殿心月寿桂尼大姉」と変わりました。江戸五代将軍・徳川綱吉公の生母である桂昌院が同年6月22日に亡くなり、その直後に改名をしているようなので、「国母」と呼ばれた桂昌院との同名を避けたものと思われます。桂昌院と智光院には、また別の奇縁があるのですが、その話題はいずれ後の機会に…。

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元禄11年(1698)、智光院は浅草新谷町8番地(現在の西浅草3丁目26番)に移転しました。浅草での200年以上の歴史を経て後、大正元年(1912)に、東京市の区画整理により、現在地東京杉並に移転しました。

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これが智光院の本堂です。昭和34年(1959)に中野区白鷺・真言宗福蔵院の本堂を移築したものです。平成8年(1996)に改修し、正面に新しい向拝を設けました。

since 2004/6/24 - last modified 2013/8/28


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