1.小止観とは?
『小止観(しょうしかん)』とは、中国天台宗の開祖・天台大師(智者大師・538~597)によってまとめられた本です。禅定と智慧の観察と、その実践行について、仏教史上初めて書かれた書であり、とりわけ修行初心者のために、懇切丁寧に書かれてあるのが特徴です。
2.「止観」と「坐禅」
「止観」と「坐禅」は、どうちがうのでしょうか? まずは、それぞれの語意を辞典からひろってみましょう。(引用語句は、『広説佛教語大辞典』/中村 元 著 より)
■止観 … 止は、心の動揺をとどめて本源の真理に住すること。観は、不動の心が智慧のはたらきとなって、事物を真理に即して正しく観察すること。止は定に当たり、観は慧に当たる。
■坐禅 … 坐して禅定を修すること。両足を組んですわり、精神を集中し、思いをこらし、無念無想の境地に入ること。
とあります。また「智慧」と「禅定」は、
■智慧 … 事物の実相を照らし、惑いを断って、さとりを完成するはたらき。叡智。
■禅定 … ディヤーナ(サンスクリット語)の音写である禅と、その意訳である定とを合成してできた語。心を安定統一させること。心静かな内観。坐禅によって心身の深く統一された状態。静慮。
とあります。辞典の意味上は、
「止観」=「禅定+智慧」
「坐禅」=「坐って行う行+禅定」
となります。『小止観』における止観の定義「止」と「観」は、それぞれインド仏教時代の言葉を意訳したものです。『小止観』の序文においては、
■「~その急要を論ずるに、止観の二法を出でず」(序)
とあり、涅槃寂静の境地を会得する方法としては種種の行いがあるが、止および観の実践行こそがすべての基礎たり得る、と述べております。
そして、それに続く部分では、
■「止は是れ禅定の勝因、観は是れ智慧の由籍」(序)
■「定慧の二法を成就すれば、すなわち自利利他の法みな具足す」(序)
のように、止観とは定慧の二法である、と明言し、禅定と智慧とは、車の両輪が回るように一体のものであると述べ、片方のみに特化した修習を戒めています。
さらに第6章では、止・観のそれぞれについて、具体的解説や実践法が述べられ、初心参学者に対して懇切丁寧に説明されています。
このように『小止観』は、書名が表すとおり、実践行の大枠として「止観」=「定慧」があり、「止」または「観」それぞれを分けた場合、「禅定」・「智慧」として、その修行法を説明しています。
3.『小止観』における「坐禅」
「坐禅は、最も優れた止観の実践行ではあるが、本来人間は動いたり、止まったり、坐ったり、横になったり、あるいは手足を使って何かをしたり、人と会話をしたりなどして、様々な局面に当たっているものである。そのため、坐禅のみならず生活のすべてにおける止観の実践が不可欠である。」
というのが、『小止観』の大義です。
『小止観』では、「坐禅」のみならず、行住坐臥(日常の起居動作)のすべてにおいて、心の静けさを保ち(=止)、心を正しく観察する(=観)ことが述べられています。その中でも特に坐禅行については、姿勢・呼吸法・心の見方などが詳細に書かれており、本書において「坐禅は止観の基本」という位置づけと捉えられます。
4.禅宗における坐禅
『小止観』では、坐禅は止観の一部分にすぎません。では、禅宗における「坐禅」はどうでしょうか。
坐禅について書かれた書はいくつかありますが、代表される書といえば『坐禅儀』と『普勧坐禅儀』でしょう。しかし、これらの書は、『小止観』に対抗し得るほどの内容となっていません。そこで、『小止観』が定慧について述べられている、という観点から、六祖慧能大師の『六祖壇経』と比較してみます。
『六祖壇経』では、
■「我がこの法門は、定慧をもって本となす(中略)定慧は一体にして是れ二ならず」(第三)
とあり、禅定と智慧を別々に分けるものではないことを明言しています。定慧をそれぞれ灯りと光に例え、灯りがついて部屋が明るくなるのは、別々のものが組み合わさるのではなく、灯りと光は本体として同一のものであり、定慧の関係もこれと同じである、と解説されています。
その後に、
■「この法門の中には障無く碍無し。外、一切善悪の境界において、心念起こらざるを名づけて坐となす。内、自性を見て動ぜざるを名づけて禅となす」(第四)
■「外、相を離るるを禅となし、内、乱れざるを定となす」(第四)
として、坐禅を単純な言葉の解釈ではなく、実践的意味を前面に出し定義されています。この時、禅定と智慧は別に考えてはいけない、という前提がありますので、坐禅は禅定のみの鍛錬である、とはしておりません。
これは『小止観』が言う「止観は車の両輪」と同じことであります。よって、禅宗が定義する「坐禅」には、「止観」の要素がすでに織り込まれているのです。
次に、行住坐臥の場面ですが、禅宗では臨済宗系第8祖・百丈慧海禅師が『百丈清規』を作られて以降、作務の大切さを説きます。作務は労働のみならず「仏としての務めをなす」という精神により、日常のすべてが修行であることを重んじます。坐禅のみならず日常すべてにおいて禅定を養う、ということは、禅宗においては基本的教義です。
このように、禅宗における「坐禅」は、定慧の実践を包含し、行住坐臥における「止観」は、禅宗修行の基本である、となるでしょう。
5.注意点
『小止観』が素晴らしい書であることは、異論を挟む余地もなく、初心参学者に対して、大変有用なテキストには違いありません。しかし、多くの場合、初心者はテキストに沿って修行をしていく過程で、「言葉」そのものの解釈に固執してしまう傾向があります。言葉尻を追って修行を進めていくと、本来の目的である定慧の観察が、頭での解釈に止まってしまいます。心身そのもので合点がゆくのを「智慧」と仮定するならば、頭で理解したものは「知識」のレベルを超えないのです。このことは、『小止観』を読む時の、唯一気を付けなければならないポイントであります。
その点『六祖壇経』は、見性について端的に述べられています。両書とも、禅定と智慧の両面を実践する大切さを説いたものであり、その内容はほぼ同様であるのにも関わらず、このような相違が見られるのは、
教説を論理的に整理し書かれた『小止観』
説法の記録書である『六祖壇経』
という、成立の過程によるところもあります。
ただし『六祖壇経』は、説法の記録ではありますが、その内容に加筆・修正の疑惑があることも忘れてはなりません。また、テキストで読んでいくことと、目の当たりに説法を聴聞することとについても、自ずとその性格は違ってきますから、これらの点には注意をしながら読まなければなりません。
6.坐禅と止観は同義
止観と坐禅は、用語の表面だけを解釈すると
「止観」=「禅定+智慧」
「坐禅」=「坐って行う行+禅定」
であると前述しました。しかし、多くの仏教要語は、表面的な言葉の解釈では意味を捉えきれなかったり、間違ったする場合があります。
「止観」と「禅宗における坐禅」でも、字面のみを追うのではなく、その真意が何を指し示すのかと考えれば、その示そうとする内容はほぼ同じである、と結論できます。
■参考文献
『天台小止観~仏教の瞑想法』/新田 雅章 著/春秋社
『現代語訳 天台小止観』/関口 真大 訳/大東出版社
『六祖壇経』/中川 孝 著/たちばな出版
『広説佛教語大辞典』/中村 元 著/東京書籍
since 2004/6/11 - last modified 2005/7/2
- 関連記事
-
テーマ : 仏教・佛教
ジャンル : 学問・文化・芸術