引っ越してきました

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経典解説目次

▶ 懺悔文
▶ 般若心経
▶ 四弘誓願
▶ 白隠禅師坐禅和讃
▶ 白隠禅師坐禅和讃(旧ウェブサイト仕様)
▶ 無相大師遺誡
▶ 坐禅儀

テーマ : 仏教・佛教
ジャンル : 学問・文化・芸術

佐藤駿河守堅忠

佐藤堅忠(さとうかたただ)は、当山大檀越・佐藤家の始祖であります。天文17年(1548)の生まれで、慶長17年(1612)12月23日に65歳で亡くなりました。戒名は、冬林宗雪居士(後年に元亨院殿と追贈)といいます。

はじめ豊臣秀吉に仕え、天正13年(1585)金切裂指物使番となり、文禄3年(1594)伏見城の普請奉行を勤めました。秀吉没後は徳川家康に従い、慶長5年(1600)上杉征伐および関ヶ原の戦いに加わり、慶長10年(1605)徳川秀忠将軍宣下拝賀上洛に供奉し、慶長12年(1607)には駿府城築城の普請奉行など歴任しております。

亡くなった慶長17年当時の消息は不明です。徳川家臣団として江戸に移住していたかが明らかでなく、一方、豊臣氏は健在でしたので、江戸と大坂の両方にお仕えする状況でありました。従って、江戸、大坂、伏見、京都、美濃加茂(岐阜)、静岡などで亡くなられた可能性があります。

寛政11年(1799)、幕府は『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』を編纂することになり、各大名・旗本に家系譜の提出を求めました。その際、幕府への提出記録事項の中には、「歴代墓所」という項目が含まれておりました。当時の佐藤家10代目当主・信顕は、提出事項の墓所について、歴代葬地を調査し、幕府へ提出しましたが、初代・堅忠の墓所は『諸家譜』に記載がありません。おそらく信顕は、始祖の墓所を探索したと思われますが、探し出すことができなかったのでしょう。

12代目当主・信禮は、弘化4年(1847)始祖・堅忠の供養碑を、江戸浅草(現在・台東区松が谷)の海禅寺に建てますが(昭和2年に当山へ移設)、当時も墓所は不明であったため、子孫に墓所の探索を行うよう、供養碑に次のような銘文を残したのです。

始祖堅忠公卒後閲年既久矣後世百方索其墓而未有克獲也今茲弘化丁未冬十二月追贈院號権設碑于海禅寺以奠香火致報本之意焉子孫當益刻心索其故墓而勿忘 十二世孫信禮謹識

現当主・任宏氏も、佐藤家ゆかりの土地を訪ね、広範囲にわたり捜索をしておりますが、いまだ始祖の葬地が見つかりません。佐藤家2代目・継成の墓地は、静岡・寶泰寺にあり、3代目・吉次は、岐阜伊深・正眼寺の開基として、正眼寺に葬られております。いずれも臨済宗の名刹であり、始祖・堅忠の葬地が判らないことは、大変残念であります。



2005年4月より、当ウェブサイトにて情報を呼びかけておりました。今日までいくつかの情報をお寄せいただきました。提供者様には、この場を借りて心よりお礼申し上げます。ただ、調査の進捗が芳しくなく、いまだに情報提供者様にお返事ができませず、大変に申し訳なく思っております。

調査に動きがありましたら、当ウェブサイトにて随時発表いたします。

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since 2005/4/12 - last modified 2013/8/30


テーマ : 歴史
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小止観 止観と坐禅

1.小止観とは?

『小止観(しょうしかん)』とは、中国天台宗の開祖・天台大師(智者大師・538~597)によってまとめられた本です。禅定と智慧の観察と、その実践行について、仏教史上初めて書かれた書であり、とりわけ修行初心者のために、懇切丁寧に書かれてあるのが特徴です。

2.「止観」と「坐禅」

「止観」と「坐禅」は、どうちがうのでしょうか? まずは、それぞれの語意を辞典からひろってみましょう。(引用語句は、『広説佛教語大辞典』/中村 元 著 より)

■止観 … 止は、心の動揺をとどめて本源の真理に住すること。観は、不動の心が智慧のはたらきとなって、事物を真理に即して正しく観察すること。止は定に当たり、観は慧に当たる。

■坐禅 … 坐して禅定を修すること。両足を組んですわり、精神を集中し、思いをこらし、無念無想の境地に入ること。

とあります。また「智慧」と「禅定」は、

■智慧 … 事物の実相を照らし、惑いを断って、さとりを完成するはたらき。叡智。

■禅定 … ディヤーナ(サンスクリット語)の音写である禅と、その意訳である定とを合成してできた語。心を安定統一させること。心静かな内観。坐禅によって心身の深く統一された状態。静慮。

とあります。辞典の意味上は、

「止観」=「禅定+智慧」
「坐禅」=「坐って行う行+禅定」
となります。『小止観』における止観の定義「止」と「観」は、それぞれインド仏教時代の言葉を意訳したものです。『小止観』の序文においては、

■「~その急要を論ずるに、止観の二法を出でず」(序)

とあり、涅槃寂静の境地を会得する方法としては種種の行いがあるが、止および観の実践行こそがすべての基礎たり得る、と述べております。

そして、それに続く部分では、

■「止は是れ禅定の勝因、観は是れ智慧の由籍」(序)

■「定慧の二法を成就すれば、すなわち自利利他の法みな具足す」(序)

のように、止観とは定慧の二法である、と明言し、禅定と智慧とは、車の両輪が回るように一体のものであると述べ、片方のみに特化した修習を戒めています。

さらに第6章では、止・観のそれぞれについて、具体的解説や実践法が述べられ、初心参学者に対して懇切丁寧に説明されています。

このように『小止観』は、書名が表すとおり、実践行の大枠として「止観」=「定慧」があり、「止」または「観」それぞれを分けた場合、「禅定」・「智慧」として、その修行法を説明しています。

3.『小止観』における「坐禅」

「坐禅は、最も優れた止観の実践行ではあるが、本来人間は動いたり、止まったり、坐ったり、横になったり、あるいは手足を使って何かをしたり、人と会話をしたりなどして、様々な局面に当たっているものである。そのため、坐禅のみならず生活のすべてにおける止観の実践が不可欠である。」

というのが、『小止観』の大義です。

『小止観』では、「坐禅」のみならず、行住坐臥(日常の起居動作)のすべてにおいて、心の静けさを保ち(=止)、心を正しく観察する(=観)ことが述べられています。その中でも特に坐禅行については、姿勢・呼吸法・心の見方などが詳細に書かれており、本書において「坐禅は止観の基本」という位置づけと捉えられます。

4.禅宗における坐禅

『小止観』では、坐禅は止観の一部分にすぎません。では、禅宗における「坐禅」はどうでしょうか。

坐禅について書かれた書はいくつかありますが、代表される書といえば『坐禅儀』と『普勧坐禅儀』でしょう。しかし、これらの書は、『小止観』に対抗し得るほどの内容となっていません。そこで、『小止観』が定慧について述べられている、という観点から、六祖慧能大師の『六祖壇経』と比較してみます。

『六祖壇経』では、

■「我がこの法門は、定慧をもって本となす(中略)定慧は一体にして是れ二ならず」(第三)

とあり、禅定と智慧を別々に分けるものではないことを明言しています。定慧をそれぞれ灯りと光に例え、灯りがついて部屋が明るくなるのは、別々のものが組み合わさるのではなく、灯りと光は本体として同一のものであり、定慧の関係もこれと同じである、と解説されています。

その後に、

■「この法門の中には障無く碍無し。外、一切善悪の境界において、心念起こらざるを名づけて坐となす。内、自性を見て動ぜざるを名づけて禅となす」(第四)

■「外、相を離るるを禅となし、内、乱れざるを定となす」(第四)

として、坐禅を単純な言葉の解釈ではなく、実践的意味を前面に出し定義されています。この時、禅定と智慧は別に考えてはいけない、という前提がありますので、坐禅は禅定のみの鍛錬である、とはしておりません。

これは『小止観』が言う「止観は車の両輪」と同じことであります。よって、禅宗が定義する「坐禅」には、「止観」の要素がすでに織り込まれているのです。

次に、行住坐臥の場面ですが、禅宗では臨済宗系第8祖・百丈慧海禅師が『百丈清規』を作られて以降、作務の大切さを説きます。作務は労働のみならず「仏としての務めをなす」という精神により、日常のすべてが修行であることを重んじます。坐禅のみならず日常すべてにおいて禅定を養う、ということは、禅宗においては基本的教義です。

このように、禅宗における「坐禅」は、定慧の実践を包含し、行住坐臥における「止観」は、禅宗修行の基本である、となるでしょう。

5.注意点

『小止観』が素晴らしい書であることは、異論を挟む余地もなく、初心参学者に対して、大変有用なテキストには違いありません。しかし、多くの場合、初心者はテキストに沿って修行をしていく過程で、「言葉」そのものの解釈に固執してしまう傾向があります。言葉尻を追って修行を進めていくと、本来の目的である定慧の観察が、頭での解釈に止まってしまいます。心身そのもので合点がゆくのを「智慧」と仮定するならば、頭で理解したものは「知識」のレベルを超えないのです。このことは、『小止観』を読む時の、唯一気を付けなければならないポイントであります。

その点『六祖壇経』は、見性について端的に述べられています。両書とも、禅定と智慧の両面を実践する大切さを説いたものであり、その内容はほぼ同様であるのにも関わらず、このような相違が見られるのは、

教説を論理的に整理し書かれた『小止観』
説法の記録書である『六祖壇経』
という、成立の過程によるところもあります。

ただし『六祖壇経』は、説法の記録ではありますが、その内容に加筆・修正の疑惑があることも忘れてはなりません。また、テキストで読んでいくことと、目の当たりに説法を聴聞することとについても、自ずとその性格は違ってきますから、これらの点には注意をしながら読まなければなりません。

6.坐禅と止観は同義

止観と坐禅は、用語の表面だけを解釈すると
「止観」=「禅定+智慧」
「坐禅」=「坐って行う行+禅定」
であると前述しました。しかし、多くの仏教要語は、表面的な言葉の解釈では意味を捉えきれなかったり、間違ったする場合があります。

「止観」と「禅宗における坐禅」でも、字面のみを追うのではなく、その真意が何を指し示すのかと考えれば、その示そうとする内容はほぼ同じである、と結論できます。


■参考文献
『天台小止観~仏教の瞑想法』/新田 雅章 著/春秋社
『現代語訳 天台小止観』/関口 真大 訳/大東出版社
『六祖壇経』/中川 孝 著/たちばな出版
『広説佛教語大辞典』/中村 元 著/東京書籍

since 2004/6/11 - last modified 2005/7/2


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小止観 坐禅前の5カ条

『小止観』の第1章では、坐禅修行のための下準備について述べられています。生活態度や環境などについて、修行を円滑に進めるための「条件」とも言えます。

1.持戒清浄(じかいしょうじょう)

(内容)清く正しい心を持ち、身辺の清潔を守ること。正しい生活態度・純粋な心があってこそ、正しい禅定・智慧が生まれる。
もしも自分の日常を省みて、心身清浄ではないと思ったら、これ以降の日常生活を改めること。反省をして、善悪をよくわきまえ、信心を深くし、仏法を理解し、読経などを実践する。このような努力を行えば、やがて心身清浄になるであろう。

(解説)これはそのまま現代の生活に当てはめて、同様に実践すればよいでしょう。自分自身への戒めを持ち、素直に坐禅に励もうとするならば、仏教に対する正しい理解が得られるでしょう。


2.衣食具足(えじきぐそく)

(内容)必要充分な衣類と食事。衣類は、インドや中国での修行生活における衣類の種類をあげ、余計な衣類を持つことを戒めている。食事についても同様に、托鉢で得た食物や、信者から施された食物などを頂くように、と注意している。

(解説)内容がインド・中国の出家修行者向けであり、私たちにはそのまま通用しません。そこで、これを現代に則して言い換えれば、
「服装は、季節にあった清潔なもの。食事は、暴飲暴食を避け、贅沢を自重する。衣食両方に、必要以上のものを求めず(足りている、ということを自覚する)、感謝の念を忘れない。」
という感じになるでしょうか。


3.閑居静処(げんごじょうしょ)

(内容)仕事をせず、心が乱されない・周囲が騒がしくない環境に住む。山奥や道場で過ごすこと。

(解説)ここも出家修行者向けです。町や村など人が居住する地域では、どうしても雑音に惑わされるので、静かなところで暮らすことを勧めているわけです。つまり、心を集中しやすくするためには、周囲の環境を整えることは必要だ、ということです。
もし私たちが坐禅をするのならば、比較的静かで、空気のきれいな早朝や、境内地の広い寺院や坐禅道場で行うのが、最も心を集中しやすい、とだけ覚えておきましょう。


4.息諸縁務(そくしょえんむ)

(内容)生活生計のための仕事、大工・医療・会計など専門知識や技術のある仕事、人とのつき合い、読書などの学問、これらをすべて放棄すること。なぜなら、これらを実行している時間は、修行ができないからであり、また、修行に入っても心が落ち着かず、精神統一をしにくいからである。

(解説)「坐禅」に集中していると、確かに心は落ち着くのですが、「そういえば隣の奥さんに貸したタッパーが返ってこない」とか「明日の株価は上がるだろうか」とか、普段は考えもしないことや忘れていたことなど、余計な考えが頭に浮かんできます。私たちは普段、「仕事」「家庭」という具合に、時間や状況に応じて、気持ちや身体を切り替えます。同じように「坐禅」に気持ちを切り替えて、精神統一を行おうと考えますが、雑念が邪魔をしてきます。
「諸縁をやすむ」とは、修行の後退を防ぐことと、雑念に対する防衛手段でありますが、修行道場へ入門しない限り、実践不可能です。私たちが俗人のまま坐禅を行う時、雑念克服の努力は、修行僧よりも厳しいものであるといえます。


5.近善知識(きんぜんちしき)

(内容)良き指導者、良き修行仲間、良き理解者を得ること。

(解説)例えば「仕事」に当てはめて考えましょう。尊敬できるトップがいて、仕事やプライベートで協調し、助けてくれる友人がいる。さらに、衣食住をサポートし、仕事の成功を喜んでくれる家族がいる。
仕事でも修行でも、多くの良縁に恵まれてこその成功・成就であります。決して自己の慢心・独りよがりになってはいけません。


6.5ヵ条の意義

『坐禅儀』を見ると、この5ヵ条が所々に組み込まれています。しかし、『小止観』ほど丁寧ではありません。時代に即して、記述を改めていると言えます。

このように、現代人が坐禅をする場合にも、その意味を読み替えねばなりません。たとえ出家修行をしなくとも、心構えとして知っておくことは、大変意義のあることです。坐禅をする時だけ「修行モード」に入るのではなく、日頃の心がけ一つで、坐禅の密度が変わってくることを覚えておきましょう。


■参考文献
『天台小止観~仏教の瞑想法』/新田雅章 著/春秋社
『現代語訳 天台小止観』/関口真大 訳/大東出版社

since 2004/6/11 - last modified 2005/7/2


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坐禅の時、目を開けるのか?閉じるのか?

智光院では「坐禅中には普通に目を開けておく」と指導をしています。しかし、一般的には「目は半眼にするように」と指導をされることが多いでしょう。また、目を閉じていた方が、心地よい時もあります。ヨガの瞑想では目を閉じます。

一体、坐禅中の目の状態としては、何が正しいのでしょうか? 経典などの記述を検証し、目の状態、開目(目を開ける)・閉目(目を閉じる)について探ってみます。


■参考文献ならびに参考ウェブサイト
『佛所行讃』(佛典講座5)/石上 善應 著/大蔵出版
『摩訶止観』(佛典講座25)/新田 雅章 著/大蔵出版
『摩訶止観研究序説』(学術叢書・禅仏教)/池田 魯参 著/大東出版社
『天台小止観~仏教の瞑想法』/新田 雅章 著/春秋社
『現代語訳 天台小止観』/関口 真大 訳/大東出版社
『臨済宗妙心寺派教学研究紀要 第2号』/臨済宗妙心寺派教化センター 刊
『新版 禅学大辞典』/禅学大辞典編纂所 編/大修館書店
『仏書解説大辞典 縮刷版』/小野 玄妙 丸山 孝雄 編/大東出版社
『仏典入門事典』/大蔵経学術用語研究会 編/永田文昌堂
『明解仏教事典』/永畑 恭典 編/本の友社
『坐禅 ー講本ー』/駒澤大学仏教学部宗学研究会 編
▶ 『財団法人 東京大学仏教青年会』~『仏教文化 第2巻 第2号』「坐禅と瞑想」西 義雄 http://todaibussei.or.jp/ebacknumber/02_02_002.htm
▶ 『大正新脩大藏經テキストデータベース』 http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/
▶ 『WWW Database of Chinese Buddhist texts』 http://www.kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~wittern/can/can4/ind/canwww.htm

since 2005/4/12 - last modified 2013/8/29


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釈尊成道時の坐禅瞑想

『仏所行讃』の第14章「阿惟三菩提品」には、次のような一節があります。

「仏は彼の七日において禅思して心清浄に、菩提樹にて観察瞪視して目瞬かず。」

これは、釈尊がおさとりを開くとき、7日間の坐禅修行の様子を記述した部分です。

「7日間禅定三昧に入り、心を清らかに保ち、菩提樹の下でこの世の真理を深く慮り、澄んだ眼は一点を見つめ、まばたきをしなかった。」

という意味になります。おさとりを開く最終段階の坐禅瞑想をする釈尊は、目を閉じていない描写になっています。



*『仏所行讃』(ぶっしょぎょうさん)

大正新脩大蔵経 本縁部 192
著者…馬鳴(めみょう)
訳者…曇無讖(どんむしん・385?~433?・中国五胡十六国時代の北涼で活躍)
記事中との関係箇所…阿惟三菩提品第十四。・・・佛於彼七日。禪思心清淨。觀察菩提樹。瞪視目不瞬。・・・

since 2005/4/12 - last modified 2005/4/18


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初期の止観から

中国に仏教が伝わった最初期に翻訳された経典(2~3世紀ごろ)の中に、安世高の訳した『大安般守意経』があります。この経には、数息観と随息観による止観が書かれてあり、「坐禅」という言葉も見られますが、開目・閉目や、調身(坐禅の時の身体の姿勢の整え方)についての記述はありません。なお、『小止観』の「修止観法門調和第四」中の、「第二初入禅調息法」と「第三初入定調心」は、この経典を踏襲した内容になっています。

『修行道地経』と『道地経』(『修行道地経』の部分訳本)には、5種類の止観法が書かれております。そのうちの「白骨観」と呼ばれる行法に、「開目」「閉目」という言葉が見られます。大まかに解読すると、

「目を開けているのも閉じているのも、白骨観修行においては同じこと。」
と読み取れます。



*『修行道地経』(しゅぎょうどうじきょう)

大正新脩大蔵経 経集部 606
訳者…竺法護(じくほうご・231?~308?・中国西晋で活躍)
記事中との関係箇所…神足品第二十二。・・・其修行者。觀人身骸在前在後等而無異。開目閉目觀之同等。是謂爲寂。尋便思惟。頭頚異處手足各別。骨節支解各散一處。是謂爲觀。此骨鎖身因四事長。飮食愛欲睡眠罪福之所縁生。皆歸無常苦空非身。不淨朽積悉無所有。是謂爲觀。取要言之。・・・


*『道地経』(どうじきょう)

大正新脩大蔵経 経集部 607
著者…僧伽羅刹(そうぎゃらせつ)
訳者…安世高(あんせいこう・生没年不詳・中国後漢末期に活躍)
記事中との関係箇所…神足行章第六。・・・譬如人刈芻。左手把芻右手持鎌便斷芻。彼譬如把芻是應止。如斷芻是應觀。譬如行者見髑髏熟諦視。若如開目見。閉目亦見亦爾無有異。・・・

since 2005/4/12 - last modified 2005/4/18


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念仏行の教え その1

五胡十六国時代(316~439)、鳩摩羅什によって翻訳された『禅秘要法経』には、罪業を除く修行方法としての、念仏坐禅の仕方が書かれています。ここで言う「念仏」とは、浄土宗系が行う「称名念仏」=「なむあみだぶつ」と口で称える念仏のことではなく、仏の相や功徳を心に思い浮かべ、集注する修行のことです。

「念仏をする時は、身を正して座り、掌を合わせて胸に当て、眼を閉じ、舌を上顎につける。そして、ひたすらに心を集注させ、仏の相を念ずる。」

とあります。この前後に「開眼」の記述がないことについて、西義雄教授は『仏教文化 第2巻 第2号』誌上「坐禅と瞑想」の論文中で、『「閉眼」とのみあるのは、その前后を省略したのか或は前后の文句を脱落したか、』と指摘されています。

同じく鳩摩羅什訳の『思惟畧要法』でも、閉目の観仏修行を説いています。また、『坐禅三昧経』にも、「心眼をもって仏を見る」といった記述がありますが、この経では開目・閉目の具体的説明はなされていません。



*『禅秘要法経』(ぜんぴようほうきょう)

大正新脩大蔵経 経集部 613
訳者…鳩摩羅什(くまらじゅう・350~409・中国五胡十六国時代の姚秦で活躍)ほか
記事中との関係箇所…・・・爾時世尊告禪難提及勅阿難汝等當教未來衆生罪業多者。爲除罪故。教使念佛。以念佛故除諸業障報障煩惱障。念佛者當先端坐。叉手閉眼擧舌向齶。一心撃念心心相注。使不分散心既定已。先當觀像。觀像者。當起想念。・・・
また、参考として別の箇所に、・・・爾時迦栴延白佛言。世尊。唯願如來爲此愚癡槃直迦比丘。及未來世一切愚癡亂想衆生。説正觀法。佛告槃直迦。汝從今日。常止靜處。一心端坐。叉手閉目。攝身口意。愼勿放逸。汝因放逸。多劫之中。久受勤苦。汝隨我語。諦觀諸法。時槃直迦。隨順佛語。端坐繋心。・・・
という記述もあり。


*『思惟畧要法』(しゆいりゃくようほう)

大正新脩大蔵経 経集部 617
訳者…鳩摩羅什(くまらじゅう)
記事中との関係箇所…觀佛三昧法。・・・佛爲法王。能令人得種種善法。是故習禪之人先當念佛。念佛者。令無量劫重罪微薄得至禪定。至心念佛佛亦念之。如人爲王所念怨家債主不敢侵近。念佛之人諸餘惡法不來擾亂。若念佛者佛常在也。云何憶念。人之自信無過於眼。當觀好像便如眞佛。先從肉髻眉間白毫下至於足。從足復至肉髻。如是相相諦取還於靜處。閉目思惟繋心在像不令他念。若念餘縁攝之令還。心目觀察如意得見。是爲得觀像定。當作是念。・・・


*『坐禅三昧経』(ざぜんざんまいきょう)

大正新脩大蔵経 経集部 614
訳者…鳩摩羅什(くまらじゅう)
記事中との関係箇所…第五治等分法門。・・・若初習行人。將至佛像所。或教令自往諦觀佛像相好。相相明了。一心取持還至靜處。心眼觀佛像。令意不轉繋念在像不令他念。他念攝之令常在像。若心不住。師當教言。汝當責心。・・・我今要當以事困汝。如是不已心不散亂。是時便得心眼見佛像相光明。如眼所見無有異也。如是心住。是名初習行者思惟。・・・

since 2005/4/12 - last modified 2005/4/18



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念仏行の教え その2

『五門禅経要用法』の念仏坐禅では、

「仏の相をはっきりと念ずることができたら、目を閉じる。できなければ、目を開けて仏の相を見る。目を開けている時と、目を閉じている時と、どちらの場合でも同じように、仏の相をはっきりと念じられるようにする。」

というように、開目・閉目と、念仏坐禅のあり方を、明解に定義しています。この経の後半には「初習坐禅法」という一章があり、坐禅をする時の諸注意などが書かれています。『小止観』の「修止観法門善根発相第七」は、この経典の注釈と言える内容になっており、後に天台大師が止観法を集大成する上での、重要な経典と言えるでしょう。



*『五門禅経要用法』(ごもんぜんきょうようようほう)

大正新脩大蔵経 経集部 619

著者…仏陀蜜多(ぶっだみった)
訳者…曇摩蜜多(どんまみった・?~442・中国南北朝時代の宋で活躍)
記事中との関係箇所…坐禪之要法有五門。一者安般。二不淨。三慈心。四觀縁。五念佛。・・・若行人有善心已來。未念佛三昧者。教令一心觀佛。若觀佛時當至心觀佛相好。了了分明諦了已。然後閉目憶念在心。若不明了者。還開目視極心明了。然後還坐正身正意繋念在前。如對眞佛明了無異。・・・
また、参考として別の箇所に
白骨観法。・・・如鑚火見烟穿井見泥得水不久。若心靜住開眼見骨。了了如水。澄清則見面像。濁則不見・・・是故坐禪之人先當念佛。・・・人之自信無過於眼。當觀好像如見眞佛無異。先從肉髻眉間白毫。下至於足。復至肉髻。相相諦觀。還於靜處閉目思惟。係心在像使不他念。若有餘縁攝之令還。・・・
という記述もあり。

since 2005/4/12 - last modified 2005/4/18



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念仏行の教え その3

『解脱道論』という書には、次のような細かい記述がなされています。

「マンダラに相対して坐禅し、心が落ち着かないうちは目を閉じ、心が落ち着いたところで、少し目を開く。・・・大きく目を開くと、目が疲れるため、正しい観法ができない。目を閉じるとマンダラが見えなくなり、怠け心が起きてしまう。」

などとあります。マンダラを見ながら行う坐禅修行ですので、これも念仏修行の一種です。大きな開目と閉目がなぜいけないのか、という理由が解りやすく書かれています。



*『解脱道論』(げだつどうろん)

大正新脩大蔵経 論集部 1648

著者…優波底沙(うばていしゃ)
訳者…僧伽婆羅(そうぎゃばら・458?~524・中国梁で活躍)
記事中との関係箇所…卷第四 行門品第八之一。・・・應安坐具對曼陀羅結跏趺坐。令身平正。内心起念閉眼小時。除身心亂。攝一切心成一。心小開眼。髣髴令觀曼陀羅。彼坐禪人現觀曼陀羅形。以三行取相。以等觀以方便以離亂。問云何以等觀。答坐禪人現觀曼陀羅。非大開眼非大閉眼。如是當觀。何以故。若大開眼其眼成惓。曼陀羅自性現見自性。彼分想不起。若最閉眼見曼陀羅成闇。亦不見彼相便生懈怠。是故應離大開眼大閉眼。唯專心住曼陀羅。・・・

since 2005/4/12 - last modified 2005/4/18



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天台大師の止観

6世紀に活躍した天台大師智顗は、止観修行を総合的にまとめ上げ、数々の著作を著し、大変な功績を残しました。智顗の著書のうち『小止観』を見ると、

「目を閉じるが、外の光をわずかに遮る程度にする。」

という記述があります。また、『摩訶止観』の注釈書である『止観輔行伝弘決』にも同様の記述があります。ただし『摩訶止観』には、調身に関する記述はありません。

『法華三昧懺儀』でも、目を閉じる坐禅を提唱しているように、天台大師の坐禅は、基本的には観相念仏や誦経を伴う坐禅であり、過去の経典に示されたような「閉目」の坐禅であるといえます。

『小止観』では、「沈(心がふさいだ状態)」・「浮(心が浮ついた状態)」という間違った心理状態の坐禅を戒めており、そのために、坐禅の開始直後は開目を認め、禅定に入り心が整った後は閉目にする、と判断できます。



*『小止観』(しょうしかん)または『修習止観坐禅法要』(しゅうしゅうしかんざぜんほうよう)

大正新脩大蔵経 諸宗部 1915
著者…智顗(ちぎ・538~597・中国天台宗の開祖、随代に活躍、天台智者大師)
記事中との関係箇所…修止観法門調和第四。・・・次当閉口、唇齒纔相拄著、挙舌向上齶。次当閉眼、纔令斷外光而已。然後、当端身正坐、猶如矴石。・・・


*『止観輔行伝弘決』(しかんぶぎょうでんぐけつ)

大正新脩大蔵経 諸宗部 1912
著者…湛然(たんねん・711~782・中国天台宗第6祖、唐代に活躍、荊溪尊者)
記事中との関係箇所…卷第四之四。・・・次閉口鼻中内清氣。如是至三。若息已調一度亦足。次閉口脣齒纔相拄。舌向上齶閉眼纔令斷外光。・・・


*『法華三昧懺儀』(ほっけざんまいせんぎ)

大正新脩大蔵経 諸宗部 1941
著者…智顗(ちぎ)
記事中との関係箇所…第十明坐禪實相正觀方法・・・行者行道誦經竟。當就坐處。入繩床中齊整衣服端身正坐。閉眼合口調和氣息。寛放身心。一一如坐禪前方便中説。然後歛念正觀破壞罪業。云何明正觀。如菩薩法不斷結使不住使海。觀一切法空如實相。是名正觀。・・・

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臨済宗の坐禅底本

時代が下り、中国に禅宗が広まると、坐禅の仕方に関する著作が数多く出されました。それらには『小止観』や『摩訶止観』の影響が見受けられます。臨済宗で、坐禅修行の底本に用いるのは『坐禅儀』です。『坐禅儀』の記述では、

「目はすべからく微し開き、昏睡を致すこと免るべし。」

と書かれています。現代語に訳すならば、

「目は少し開き、居眠りをしないようにする。」

となるでしょう。眠らないようにするためには、目は開けている必要がある、というような書き方です。さらに、

「目を閉じて坐禅をしている姿は、暗黒の渓谷に住む餓鬼のようである。」

という意味の記述もあります。調身や坐相(坐禅の姿勢)の解説は『小止観』などと同様ですが、昏睡に陥らないようにするために、目を閉じることを固く禁じています。(拙サイト『坐禅儀』解説参照)



*『坐禅儀』(ざぜんぎ)

大正新脩大蔵経 未収録
編者…長蘆宗賾(ちょうろそうさく・生没年不詳・中国宋代の雲門宗の僧、慈覚大師)
記事中との関係箇所…・・・舌拄上腭、脣齒相著、目須微開、免致昏睡。・・・

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大慧宗杲の黙照批判

南宋時代の大慧宗杲禅師は、語録の中で「目を閉じて、瞳を隠し、ただ押し黙って妄想を描いているような坐禅は、無覚無知の死人と同じ。」と言って、目を閉じて妄念を起こしてしまう坐禅を、厳しく戒めています。公案禅の宣揚者である大慧禅師は、観相念仏の坐禅や天台止観とは、まったく立場が異なっています。念仏坐禅では可とされていた閉目は、公案禅では完全否定されます。



*『大慧普覚禅師語録』(だいえふかくぜんじごろく)

大正新脩大蔵経 諸宗部 1998a
編者…雪峰蘊聞(せっぽううんもん・中国宋代の雲門宗の僧、大慧宗杲の法嗣)
記事中との関係箇所…大慧普覺禪師普説卷第十五。・・・閉目藏睛。隨有念起。旋旋破除。細想纔生。即便遏捺。如此見解。即是落空亡底外道。魂不散底死人。溟溟漠漠無覺無知。・・・
また、別の箇所にも同様に、
大慧普覺禪師書卷第二十八。・・・近年叢林有一種邪禪。以閉目藏睛。觜盧都地作妄想。謂之不思議事。・・・
という記述あり。

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曹洞宗の坐禅底本

永平道元禅師著述の『普勧坐禅儀』には、

「目は須らく常に開くべし。」

とあり、同様に『正法眼蔵坐禅儀』では、

「目は開すべし。不張不微なるべし。」

瑩山紹瑾禅師撰述の『坐禅用心記』では、

「眼は須らく正しく開くべし、張らず微からず。」

とあります。微妙に記述が異なりますが、総じて

「目は大きく開けすぎず、薄目にもしない。」

という意味に理解すればよいでしょう。『解脱道論』(念仏行の教え その3参照)の記述に近い書き方です。『弁道法』では、さらに次のような記述が加えられ、丁寧な解説がなされています。

「とりわけ眼を閉じることはいけない。眼を閉じれば、意識がはっきりしなくなる。常に目を開けていれば、微風が眼に当たり、意識もはっきりさせられる。」



*『普勧坐禅儀』(ふかんざぜんぎ)

大正新脩大蔵経 続諸宗部 2580
著者…希玄道元(きげんどうげん・1200~1253・日本曹洞宗の開祖、承陽大師)
記事中との関係箇所…・・・舌掛上腭、脣齒相著、目須常開、鼻息微通、身相既調、欠気一息、左右揺振、兀兀坐定、思量箇不思量底。不思量底、如何思量。非思量。此乃坐禅之要術也。・・・
(舌、上のあぎとにかけて、唇歯、相つけ、目はすべからく常に開くべし。鼻息かすかに通じ、身相すでにととのえて、欠気一息し、左右揺振して、ごつごつとして坐定して、箇の不思量底を思量せよ。不思量底、いかんが思量せん。非思量。これすなわち坐禅の要術なり。)


*『正法眼蔵 第十一 坐禅儀』(しょうぼうげんぞう だい11 ざぜんぎ)

大正新脩大蔵経 続諸宗部 2582
著者…希玄道元(きげんどうげん)
記事中との関係箇所…・・・舌ハカミノ腭ニカクヘシ。息ハ鼻ヨリ通スヘシ。唇齒アヒツクヘシ。目ハ開スヘシ。不張不微ナルヘシ。・・・


*『坐禅用心記』(ざぜんようじんき)

大正新脩大蔵経 続諸宗部 2586
編者…瑩山紹瑾(けいざんじょうきん・1268~1325・日本曹洞宗太祖、常済大師)
記事中との関係箇所…
・・・舌拄上腭、息従鼻通、脣齒相著、眼須正開、不張不微。・・・


*『弁道法』(べんどうほう)

大正新脩大蔵経 続諸宗部 2584 『永平清規』中の1編
著者…希玄道元(きげんどうげん)
記事中との関係箇所…・・・切忌閉眼、閉眼昏生、頻頻開眼、微風入眼、困容易醒。應念無常迅速道業未明。・・・(切に眼を閉じることを忌む。眼を閉じれば昏、生ず。頻頻に眼を開けば、微風、眼に入りて、困、容易に醒む。まさに無常迅速にて、道業いまだあきらめざるを念ずべし。)
また別の箇所に、
・・・舌掛上腭、脣齒相著、目須正開、不張不微、莫以瞼掩瞳。・・・
(舌は、上のあぎとにかけ、唇歯、相つけ、目はすべからく正しく開くべし。張らずほそめず、まぶたをもって、瞳をおおうことなかれ。)
という記述もあり。

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開目・閉目について 総括

目を閉じると、瞑想に入りやすいという利点がありますが、その反面、1,妄想を起こす、2,寝てしまう恐れがある、という重大な欠点があります。

目を閉じることを可としているのは、観相念仏の坐禅の場合です。念仏の場合には、「仏の相を観じる」という確固たる目的があるため、「目を閉じていても妄想が起きにくいから」という理由と、「インド伝来の瞑想に準じた方法である」という理由によるものでしょう。

禅宗の「坐禅」は、観相念仏ではなく、無念無想による心の安定を目的としているため、妄想や昏睡を特に戒めます。これは当に目を閉じた時の欠点と合致するため、目を閉じることを完全否定するに至ります。

余計な光を遮るためには、眼は若干閉じた方がいいですし、眩しければ自然に視線も落ちます。このような眼の状態は、いわゆる「半眼」と言えるでしょう。

『坐禅儀』の記述だけを見ると、自分で意識して半眼にするような書き方ですが、実際には「光を遮ること」と「眠らないように」という2点が、背景にあるものと考えられます。その点では、曹洞宗の各底本も同様でしょう。

過去の経本から順を追って考え、そして禅宗の坐禅に当てはめていくと、大きく開けすぎず、閉じず、リラックスした状態が正しい目の開け方で、光が邪魔をするのならば、適度にまぶたを落とした楽な状態にして、そして前方をぼんやり眺めるようにする、というのが一番良い方法である、となります。

大きく目を開けてはいけない。→ 疲れるため。
閉じてはいけない。→ 寝てしまうし、妄想が起こりやすい。
意識して半眼にしない。→ 余計な光を遮る程度に、まぶたを落とすことは可。
ということになります。

視線については触れませんでしたが、「1メートル程前方に落とす」という意識を持つより、上記3点に則った形で、自然に前方へ目線をおく、ということで良いのではないでしょうか。

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般若心経 概説

『般若心経(はんにゃしんぎょう)』は『大品般若経』の教義のうち「空(くう)とはどういうものか」を丁寧に解説したお経です。釈尊が弟子のシャーリプトラに言い聞かす形式で書かれています。

「般若」とは「智慧(ちえ)」と訳します。智慧とは、先天的な人智を指します。後天的な学習によって得られる「知恵」とは異なります。

釈尊には10人の優れた弟子がいました。この経に登場するシャーリプトラ(舎利佛、しゃりほつ)は、弟子の中で最も智慧に秀でており「智慧第一」と呼ばれていました。

今日読まれている『般若心経』は、中国・唐時代の三蔵法師・玄奘(602~664)の訳と伝わっています。

■参考文献
『簡訳 臨済宗読誦聖典』/西村 惠信 監修/四季社
『禅宗聖典講義』/伊藤 古鑑 著/臨済宗青年僧の会
『秘蔵宝鑰 般若心経秘鍵』(佛典講座32)/勝又俊教 著/大蔵出版
『般若心経 金剛般若経』/中村 元・紀野 一義 訳注/岩波書店
『真言陀羅尼』/坂内 龍雄 著/平河出版社

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般若心経 #1

摩訶般若波羅蜜多心経

観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄、舎利子、色不異空、空不異色、色即是空、空即是色、受想行識、亦復如是、舎利子、是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減、是故空中、無色無受想行識、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法、無眼界、乃至無意識界、無無明、亦無無明尽、乃至無老死、亦無老死尽、無苦集滅道、無智亦無得、以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃、三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提、故知般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚故、説般若波羅蜜多呪、即説呪曰、羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。般若心経。



(題名)
『摩訶般若波羅蜜多心経』

(現代語解釈)
『大いなる智慧の働きによって、心を完全なる平安に導き、完成させるという、肝要の教え』



(原文書き下し1)
観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したもう。



(意訳1)
智慧深き観音さまが、意味深い「般若波羅蜜多(生まれながらに持っている智慧を、完全なる心の平安に導き、完成させる)」という教えについて実践していて、その教えの内容を、次のように理解した。
この世の中は、すべての形のあるもの(現象世界=色)と、感じること(感受作用=受)、想うこと(表象作用=想)、意志の力によって行うこと(反応=行)、目や耳、口などから受ける刺激を考え、認識すること(判断=識)、これらの5つの集まり(=五蘊・現象世界+精神的世界))によって、成り立っているのだ。そして、そのどれ一つとってみても、変化し滅びる性質を持っているので、永遠不滅のものはないのである。
この意味が解るなら、どんな苦しみも困難も消え失せるのだ。

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般若心経 #2

(原文書き下し2)
舎利子、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色すなわちこれ空、空すなわちこれ色なり。



(意訳2)
(そして以下の言葉を、シャーリプトラ(舎利弗尊者)へ説かれた)
──シャーリプトラよ。私たち自身も含め、この世にある諸々の存在、形のあるものは、永久にその形のままあるはずはなく、どんなものでも、時々刻々と絶えず変化しています。これを「色」と言います。「色」は、形があるために、1つの固定した実体として認識できますが、実際にはさまざまな要素が組み合わさって、仮に集合し作られたものであるのです。この「固定化した実体がない」ことを「空」と言います。どんなに丈夫なものでも、いろいろなものが組合わさって、頑丈に見えているだけなので、形あるものは「まるで夢幻のようである」とも言えるし、夢幻と言えども、確かに現象としては存在しているのです。つまり「色」と「空」は別々の要素ではなく、不二平等の関係にあります。
また、仮の集合すなわち「空」ということは、それらを結びつけているのは、1つ1つの変化するものであり、結果「色」として存在します。つまり「色」と「空」は、表裏一体の関係でもあるのです。

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般若心経 #3

(原文書き下し3)
受、想、行、識も、またまたかくのごとし。



(意訳3)
心の世界についても同様で、楽しいと感じたり、赤いものを「これは赤いものだ」と見たり、お腹が空いたので食事をとったり、目、耳、鼻、舌などから受けるものを、「きれいな花」とか、「鳥の声」、「赤ん坊のにおい」、「にがい」などと感じ、想像し、判断することも、これまで生きてきた間の、自分自身の経験や知識から、あれこれ導き出された、一瞬の幻覚のようなものなのです。つまり私たちの生活すべてにおいて、どれ一つとっても、それは永遠不変の実体ではありません。しかし、実体がない場合でも、現象や認識としては存在するので、「色=空」と同様、これらも不二一体であります。

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般若心経 #4

(原文書き下し4)
舎利子、この諸法は空相にして、 生ぜず滅せず、垢つかず浄らかならず、増さず減らず。



(意訳4)
シャーリプトラよ。今まで言ってきたように、この世の中の道理として、形としてとらえられるものも、心の領域の作用も、不変のもの、永遠のものはなく、「すべてが実体なく形なくして、仮に結びついて現れている存在(=空相)」という、「色と空は不二平等、表裏一体」であるのですから、例えばあなたの「心」について言うならば、「心」が生まれたり、死んだり、汚れたり、きれいになったりする、ということは、言い方や行動として表れることはあっても、「心」というものが実体として、目の前に出ることはありません。また、「心」がもう一つ増えた、ということはありえず、逆に一つ減ってなくなった、ということも考えられません。なぜかといえば、「心」というものには、数えるべき実体というものもなければ、真実当体のありかをズバリとらえられるものでもないからです。何事も「モノ」という概念にとらわれるから、増減、好き嫌い、苦楽、あるなし、という二種分別の妄想が起こるので、これらを空ととらえるならば、元より不二平等であり、分け隔てのできるはずもないのです。

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般若心経 #5

(原文書き下し5)
このゆえに空中には、色もなく、受、想、行、識もなく、眼、耳、鼻、舌、身、意もなく、色、声、香、味、触、法もなし。眼界もなく、ないし意識界もなし。



(意訳5)
つまり「いろいろなものが組合わさって、形として表れてはいるけれど、世の中のものは、すべて永遠ではなく、一瞬ごとに変化し続けている」ということを理解できたならば、この「空の教え」の中では、形のあること、感じること、想うこと、意志の力によって行うこと、認識すること、これら五蘊は、すでに言ったとおり「空」であり、また、目、耳、鼻、舌、からだ、心、これら感覚器官は、一個人の姿形として、仮に現れたものであるし、色、音、におい、味、触るもの、一切の物事、これらの要素も永遠の実体ではなく、幻のようなものなのです。目に見える世界も、(同様に耳界・鼻界・舌界・身界も、)また、心の中で感じたり、判断したりする領域も、すべてが空であるのです。

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般若心経 #6

(原文書き下し6)
無明もなく、また無明の尽きることもなく、ないし老死もなく、また老死の尽きることもなし。



(意訳6)
さらには、煩悩や無知というものも、絶対的なものではないのですから、「迷い」から抜ける、抜け出せない、という判断基準などあるはずもないのです。「さとり」とか「迷い」ということにとらわれなければ、「迷い」に「入る」とか、「入らない」とか、「さとった」、「さとらない」という考え方そのものが「迷い」であると気付くはずです。煩悩の根本(=無明)は、現在・過去・未来の結びつきから生じる迷いの思想、すなわち因縁によるものであり、因縁には実体がないので、迷いにも有無の道理はないのです。
(第1番目・無明から第12番目・老死へとつながる縁起説は、すべての要素を同様にとらえることができ、)とらわれから抜け出せれば、「老いと死」という最大の苦しみからも解放されるのです。また逆に言えば、老いや死といった苦しみは、尽きることなく表れますが、とらわれのない心の上では、それは苦しみの要素へと、変化しないでおけるでしょう。

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般若心経 #7

(原文書き下し7)
苦、集、滅、道もなく、智もなく、また得もなし、所得なきを以てのゆえに。



(意訳7)
苦しみ(苦諦)や、その苦しみの原因を探すこと(集諦)、苦しみを抑制すること(滅諦)、苦しみを抑制してなくしていくこと(道諦)、これら「4種の真理の方法(=四聖諦)」にも、とらわれる必要はありません。
以上のように考えるのならば、真実自己の優れた智慧そのものも、その智慧を明らかにしようとする意志も、それすら実体がないのですから、智慧に執着することもないのです。智慧に執着しない、煩悩にも執着しない、さとってもさとりにとらわれない。とらわれを離れれば、得るという概念も、失うという概念も起こり得ない。
そうして、いかなる場面においても、自身の力を発揮し、自由自在の働きで、苦渋の境涯にあるものたちを救済していこうと精進努力する。これが「空の教え」であります。

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般若心経 #8

(原文書き下し8)菩提薩埵 、般若波羅蜜多によるがゆえに、心に罣礙なし、罣礙なきがゆえに、恐怖あることなし。一切の顛倒夢想を遠離して、涅槃を究竟す。



(意訳8)
さとりを求め、苦渋の境涯にあるものたちを救済していこうと精進努力する人々(=菩薩)は、この般若波羅蜜多の教えを信じているからこそ、心が平安でいられるのです。
ですから、菩薩たちは、心を束縛するものがないのです。心にとらわれや疑いをかぶせてはなりません。菩薩たちは、とらわれや疑いといった、こころを覆い隠してしまうものがないので、何事も恐れることもなく、間違った知識や迷った心から遠く離れて、永遠なる心の平安の世界に住み続けているのです。

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般若心経 #9

(原文書き下し9)
三世の諸仏、般若波羅蜜多によるがゆえに、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。



(意訳9)
過去、現在、未来、という三つの世界に住むたくさんの御仏たちは、この般若波羅蜜多の教えを信じておられるので、この上ない素晴らしいさとりを体験し、会得しておられるのです。

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般若心経 #10

(原文書き下し10)
ゆえに知るべし。般若波羅蜜多は、これ大神呪なり、これ大明呪なり、これ無上呪なり、これ無等等呪なり。よく一切の苦を除いて、真実にしてむなしからざるゆえに。



(意訳10)
そういうことですから、みんなにこの般若波羅蜜多の教えを知って欲しいのです。般若波羅蜜多の教えは、偉大で、明らかで、この上もなく、他と比べようもない真実の言葉であります。すべての苦しみを除き、偽りなき真実の言葉であります。

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般若心経 #11

(原文書き下し11)
般若波羅蜜多の呪を説きたもう。すなわち呪を説いて、のたまわく、「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー」。般若心経。

(『般若心経』おわり)



(意訳11)
般若波羅蜜多の教えの最後として、次の真言を授けて終わります。──
(以上の言葉を、シャーリプトラ(舎利弗尊者)へ説かれて、)次の真言を説かれた。
「ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼじ そわか」
以上、智慧の完成について、肝要の教え。

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般若心経 真言について

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(文字の上でクリックすると、全文が見られます。)


般若心経最後の呪文「ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼじ そわか」は「如来の真実の言葉」、略して「真言」と呼ばれます。古来より真言は、「翻訳した結果、意味がおかしくなる可能性があるために、翻訳しないものである」とされております。中村元博士も「文法的に正規のサンスクリット語ではなく、種々に訳し得るが、決定的訳出は困難である」と指摘されております。


参考までに、真言の訳出例を。

● 「往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。」 (中村元博士の訳)
● 「ゆきゆきて ともにながめん 花の山」 (上野陽一氏の訳)
● 「抜けた抜けた、漆桶底がぬけた、すっぱり抜けた、きれいさっぱり、やれうれし。」 (坂内龍雄氏の訳)
● “Gone, gone, gone beyond, gone altogether beyond, O what an awakening, all-hail !” (Edward Conze, Buddhist Wisdom Book-The Diamond Sutra, The Heart Sutra-, London, 1958, pp.101-102)

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四弘誓願 概説

『四弘誓願(しぐせいがん)』とは、菩薩(ぼさつ)が起こす4種類の誓願のことです。ほとんどの宗派で読まれるお経です。

仏道に目ざめ、さとりを得ようと努力する者を「菩薩」と呼びます。言い換えれば、仏教の信心を持ち、仏教のおしえに則った正しい生活をしている人は、すべて菩薩と呼べるのです。菩薩は、自身のさとりを求める(自利・じり)だけでなく、それ以上に、困っている・迷っている・苦しんでいる人やものに対して、慈悲と救いの手をさしのべる(利他・りた)という心がけを、常に持っていなければなりません。

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