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12月24日。

12月13日。
私の師匠が亡くなった。99才、老衰で静かに息を引き取ったそうだ。

師匠と言っても私の父親ではない。師匠は浅草かっぱ橋にある寺の住職だ。私の父は智光院の先住職であるが、私がサラリーマンをしていた時に早逝した。私が智光院を継ぐことになり、僧堂(そうどう、修行道場のこと)に行くこととなった。僧堂に入門するためには師匠が必要な決まりである。そのために、私の師匠となってくれたのがその和尚である。師匠になるということは、その後の弟子の一切の面倒を見るということなので、安易に引き受けられることではない。それを師匠は嫌な顔一つせず、その任を快く引き受けてくれた。

昭和63年。
会社をやめて僧堂に入るまで数ヶ月の猶予があった。その間、浅草かっぱ橋にある師匠の寺まで1週間ほど通って、修行僧として最低限身につけなければならないことを教わった。お経の読み方、食事の作法、衣のたたみ方など。

一日。
坐禅の仕方を教わった時のこと。
「しばらく座っていろ」
という一言を残されて私は本堂に放りっぱなしにされた。初めての坐禅、足が痛い。
(僧堂に行けば嫌でも毎日座らなきゃならないんだから、別に今真剣にやらせんでもいいじゃないか…)
坐禅中、不満いっぱいだった。後に僧堂に入門して分かったのだが、僧堂は坐禅の仕方を教えてくれるような老婆親切なところではなかった。僧堂に入って辛い日々を過ごすごと、師匠の恩愛が骨身に沁みた。

師匠は、自分の信ずるところは曲げない頑固な人だった。融通がきかないところが多分にあった。(そんな人だったので、副住職は随分苦労をされていた。)しかし、人一倍優しく慈悲深い人でもあった。私が身体を壊してからは、自分の身体のことよりも、いつでも私の身体を案じてくれた。私が入院して家族が大変な時、他の誰よりも家族を心配し慮ってくれた。死の直前に見舞いに行った時も、自分の体調には一切触れず、私に「身体を大切しろよ」と言ってくれた。

12月22日。
葬儀は滞りなく行われた。遺骸は都内の火葬場で荼毘に付された。いわゆる「のどぼとけ」と呼ばれる第二頚椎、その直上の第一頚椎は僅かも欠けることがなく、その他の主だった骨もほぼ形が残っていて、火葬場職員はじめ葬儀社、参列者その場にいたすべての人を驚嘆させた。

2日後。
私は近所の郵便局に用事で出かけた。その帰り道、智光院の脇道にさしかかった時、1羽のカラスが私の左の方から飛んできて、私の行く手を遮った後、10メートルほど先の塀の上に止まった。カラスという鳥は凡そ周囲を警戒し、人間を威嚇し、ギャーギャーとうるさく鳴くものだが、このカラスはそんな素振りを一切見せず、あさっての方を見て知らんぷりしている。私がその横を通り過ぎても何食わぬ顔をしていた。

寺に着き勝手口に行ったら、勝手口の屋根の上にカラスが止まっているではないか。さっきのカラスだろうか。カラスはどれも同じに見えるが、近くに仲間もいなさそうなので、さっきのカラスだろうと思う。私は勝手口を通り過ぎて墓地の奥へ、落ち葉掃きをしている妻に帰宅を告げに行った。妻は
「カラスがいる」
と指差して言った。私はうなずいた。その時、カラスがやおら飛び立ち私たちの方に向かってきた。しかしすぐに左へ方向を変えて、少し離れた石塔の上に止まった。今度もまた、あさっての方を向いて知らんぷりだ。鳴かぬカラスに私は
(なんだろ)
といぶかしく思ったが、まあ、カラスが考えていることなど分からないし、本堂の掃除をしなければならないので、知らんぷりしているカラスを横目で見ながら、私は勝手口から家に入っていった。

本堂の掃除をしている時、廊下を歩く足音が聞こえた。来客かと思い庫裏に向かったが誰もいない。お向かいのお寺が工事をしているので恐らくその工事の音だったのだろうと思った。

本堂の掃除が終わったころ、ふと
(ん? ちょっとまてよ?)
と思い勝手口に向かった。さっきのカラスのことが急に気になったのだ。墓地に出てカラスを探したが、どこを見回してもカラスの姿はない。

(あのカラス、なんだったんだろ)

と思った刹那

喝ーッ!
喝ーッ!

とカラスが鳴いた。姿は見えない。

(ふ、、、あの和尚なら、やりかねん)

夕暮れの東の空、はるか浅草かっぱ橋に思いを馳せ、私は師匠の冥福を祈った。

嘘のような本当の話である。
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