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平等性智

人が、善悪の心を起こすのは、物事を二元的対立判断の世界で観察するからだ。二元性のない、慈悲深き絶対平等の世界で観察すると、善とも思わず悪とも思わず、「空」とか「無」とか言われる世界を見ることができる。

釈尊、すなわち、ゴータマ・シッダールタは、カーストと呼ばれる身分差別のあるインドの地において、クシャトリアという支配者階級(政治・戦闘をする階級)の、それも王子という身分としてこの世に生を受けた。

しかし、情緒豊かであり哲学的思考を好んだ青年王子は、生まれながらに身分差別があることに、深く考え込んでしまった。いわゆる「カースト(血統)」という差別は(現在でも続いているのだが)、生を受ける時にはすでにハンディキャップが付いた状態で、人生のスタートラインに立つことになるのだ。

「人はみな平等なはずなのに、なぜ身分や容姿で分け隔てをするのだろうか?」 こんなことを、王子という身分の人間が考えていたのだ。そして、周囲の反対も聞かず、制止を振り切って、妻子を捨て出家してしまったのだから、よほど思い詰めていたに違いない。

若い日の贅沢な暮らしとは、まったく反対の生活が始まった。数年間の修行、深い洞察、坐禅瞑想、、、そうしてついに真理を見たゴータマは、「釈尊」(=シャーキャ族の聖者)と呼ばれ、私たちの師となった。カーストに構わず、誰でも受け入れ、誰にでも教えを説いた。言葉で言うのは簡単だが、社会全体に階級差別がある時代に、階級の違う人間と親しげに話をすることなど、並大抵なことでは実行できないだろう。「聖者」という尊称は伊達ではない。

物事を平等に見るということは、かなり難しい。例えばあなたが親ならば、自分の子供と他人の子供と、平等に接することができるだろうか? 健常者は障害者に対して、哀れむ態度で接していないだろうか? 平等とは、一切の垣根を取り払うこと。それはつまり、差別を離れて、慈悲心を起こすことなのである。そこには、善悪すらも生じない。これを仏教要語では、「平等性智(びょうどうしょうち)」と言う。
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