白隠禅師坐禅和讃 #9

(原文9)
因果一如の門ひらけ。無二無三の道直し。無相の相を相として。行くも帰るも余所ならず。

(いんがいちにょのもんひらけ。むにむさんのみちなおし。むそうのそうをそうとして。ゆくもかえるもよそならず。)



(意訳9)
善い行いには、善い結果が得られます。悪い行いには、悪い結果が待っています。苦しみに直面した時、その苦しみには必ず原因があります。釈尊の言われた原因と結果の関係は、それぞれを縁(えん)によって結びつけています。種をまき、実を収穫するまでには、そこに、土壌・水・日光などの善い縁がなくてはなりません。私たちは、ともすれば結果ばかりを追ってしまいますが、因(いん) → 縁 → 果(か) という一連のプロセスが大切なことは、もうお解りかと思います。では、原因と結果の道理からは逃れられないのでしょうか? そうではありません。因果(いんが)の道理そのものは、大切な教えですが、これにとらわれている間は「迷い」であり「苦しみ」であります。それは、因と果とを、区別して考えているからです。区別するということは、つまり迷っているということです。禅定を養うことによって、このような区別から離れるのです。因/果、苦しみ/幸せ、と区別して考えている心は、私たちの心に他ならず、それは仏心にも違いないのです。禅定により区別を離れるならば、苦楽も一体、因果も一体、迷いすらも仏心と一体です。区別や差別を離れて、平等の入口を開けるならば、その先には、一本の真実の道が、まっすぐ延びているのみです。2つ、3つと分かれる迷い道など存在しないのです。
では、迷いを断ち切り、禅定力を養うためには、どうしたらよいのかを考えてみましょう。1つめは、「目で見えるものの、姿・形にとらわれないようにする」ということです。この世に永遠のものはなく、形あるものは全て、常に変化しています。永遠不変のものはない、と考えることにより、煩悩・執着(ぼんのう・しゅうじゃく)から離れることができるのです。煩悩・執着がなければ、欲望を抑えることができるのです。そうすれば、私たちの心は、どんな場合でも乱れることがないのです。とらわれを離れた心は、平安な心であり、「いつ」「どこで」「なにをして」いようとも、まるで我が家でくつろいでいるような安心感があるのです。

since 2005/1/27 - last modified 2014/4/19


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テーマ : 仏教・佛教
ジャンル : 学問・文化・芸術

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