善光寺まいり

むかしから「牛に引かれて善光寺まいり」と言われます。一生に一度はお詣りしなさい、と言われた信州長野の善光寺です。昨日行って参りました。
天台宗の「大勧進」と、浄土宗の「大本願」があるこのお寺、要するに二つの宗派があるという、ややこしい寺であります。
本堂の内々陣にある、来迎二十五菩薩と百観音のオブジェ?、そしてキンキラの飾り物が、極楽浄土を演出しております。
本尊は見せてくれません。緞帳で隠されております。「本当にいるの?」と疑ってしまうのは私だけでしょうか…。
お約束の「お戒壇巡り」に入り、「極楽のお錠前」とやらを、これでもか!というくらいに思いッ切り動かしてきました。これで当分は「幸せ」になるはずです。
お堂の脇に、猫ひ○し発見、ニャー。

冗談はこれくらいにして。
寺に詣でる、ということで、私たちは身も心も清められた気持ちになります。そこへ行くまでの行程、境内に入り参拝する時、そして家に帰り、さらに未来まで、本当の信心を持ち続けられる人は、一体どれくらいいるでしょうか?
観光を悪いとは言いません。しかし、「寺に詣でる」ということは、観光旅行気分ではなく、それなりの信心というものがないと、本当はいけないのではないでしょうか?
一生に一度は善光寺にお詣りしたい、極楽浄土をこの目で見たい、という信心があればこそ、善光寺が存在する意味があるのです。阿弥陀如来が、来迎二十五菩薩が、親鸞聖人が、私たちを見守ってくれている、「あぁ、私は救われたんだ」という気持ちが起こり、それ以降の人生がガラリと変わるほど、神聖な場所なのです。
御利益なんかを当てにしていたら、それは大間違いなのですよ。
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