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牛久大仏は「仏像」か「建築物」か?

横綱・稀勢の里が引退しました。唯一日本人の横綱として、角界を盛り上げてくれました。残念ですが、横綱は成績を残さなければ、引退は止むなし。今後は親方として、強い関取を育てていただきたいですね。

稀勢の里は茨城県牛久(うしく)市の出身です。牛久と言えば「牛久大仏」が有名です。最近僧侶の勉強会の折に、こんな世間話が出ました。

ー 牛久大仏は「仏像」か「建築物」か?

東大寺の大仏は「仏像」でしょう。鎌倉の大仏は、、、元々はお堂の中に安座していましたから「仏像」でしょうね。しかし、全高120メートルの牛久大仏は「建築物」ではないか? ネットの牛久大仏のサイトを見てみると、仏像の中は展示スペースがあり、写経ができる部屋があり、納骨堂もあるそうです。という事はやはり「建築物」? ひょっとすると「墓地」とか、さらには「寺院」とも言えなくもないのか、、?

臨済義玄禅師の師匠の黄檗希運禅師に、こんなエピソードが残っています。

黄檗禅師が仏様を礼拝していると、それを見たある僧が質問しました。「(仏道を修めようと心がけるには)仏を求めない、法を求めない、衆を求めないというのに、和尚様は礼拝ばかりして、何を求めているのですか?」黄檗禅師は答えました。「仏を求めない、法を求めない、衆を求めない、私は常にただ一心に礼拝しているのみ」

仏・法・衆(=僧、修行僧が集って修行をしているところ、僧伽(サンガ))ーこの3つを「三宝(さんぼう)」と言い、仏教徒がもっとも大切にしなければならないものであります。三宝に対して心から信心を捧げること=帰依(きえ)することは、戒律に定められた重要な規範であります。三宝に帰依することは大切なことですが、その一方、何物にも執着しないようにと、釈尊はお説きになりました。仏像に礼拝ばかりしている黄檗禅師は、三宝帰依に執着が過ぎませんか? と僧は疑問を投げかけたのです。そこを黄檗禅師は「三宝を敬うことに執着しているのではない。ただひたすらに、ご利益も何も求めない無償の礼拝をしているのだ」と言われたのです。

牛久大仏と同じ120メートルの高層ビルに礼拝する=手を合わせる人はいないでしょう。牛久大仏を「建築物」という認識ではなく、「仏像」と認識してはどうでしょう? それならば「仏像」に礼拝する=手を合わせることは現実にあると思います。そして重要なのは、牛久大仏は「仏像だから」手を合わせるのではなく、牛久大仏を目の当たりにして、「ひたすらありがたく感じて、思わず手を合わせてしまう」、これが「無償の礼拝」であります。こうして考えていたら、牛久大仏に手を合わせる人よりも、牛久大仏が「仏像」か「建築物」かを考えている私の方が、よほど執着がありますね、、。

横綱というのは、神様の依代(よりしろ)なのだそうです。稀勢の里の相撲にハラハラドキドキ、思わず手を合わせて取り組みを見ていた人は、たくさんいたでしょうね。さて、この先どんな横綱が出てくるでしょうか。
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